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2010年 01月 11日
昨日、子ども達とドライブで小田原方面へ出かけた。高速道路は日祭日の割引で大層混んでいそうなので、国道1号線経由で行くことにした。平塚から大磯に掛けて走ると
道の端にいくつもの祭りの紅白の垂れ幕がかかり提灯が飾られた小屋や、正月の松飾、だるまなどを積み重ねてあるのを見かけたので、「ああ、今日、相模地方の道祖神祭りがあるのか」と思い、子ども達に信州の小正月行事のことを話をした。午後だったので、道を進めるほどに、二宮、小田原と 子ども達やお年寄り達が三々五々道沿いの祭り屋台に集まってきて、屋台の中には、酒、蜜柑や菓子などが積み重ねられて祭られており、夕方5時ごろ同じ道を帰る頃には、子ども達が蜜柑や菓子を袋に入れてもらい帰るらしいところを見かけた。元々相模地方は、この道祖神祭りが盛大に行われているということだが、旧東海道沿いの集落ではいまだに伝統行事として続けられているようだ。ただ、街道沿いで広場がないためか、松飾などは積み重ねられてあるだけだった。
ただ、この日は1月10日で、まだ小正月である15日とは大きな差がありすぎる。国民の祝日法の影響だが、こうして、暦とのつながりが失われてしまうのだろうと思うと、寂しいものがある。 2010年 01月 08日
小正月行事のことを調べていてたまたま、
どんど焼きは日本の国民的行事 小正月行事の全国調査集計(平成21年版) という調査を見つけた。 このサイトを知った人による回答で、必ずしも全国的な調査とも言えないが、この調査の中では、「かんがりや」「かんがり」という名称の回答はなかった。既に終了した調査のようだが、回答案を作成してみた。 また、Wikipediaの左義長に、小海、相木の「かあがり」と、川上の「かんがり、かんがりや」を追加した。 ----------- 小正月行事の全国調査報告書を拝見しました。 全国的にも珍しい「かんがり、かんがりや」という呼び名の行事を報告いたします。 地域 長野県南佐久郡川上村大字御所平字坂下 実施日:昭和40年代(報告者の小学生時代)には、小正月の1月15日。 名称:かんがりや(かんがり)、どんど(どんどん)焼き、道祖神のご年始(獅子舞) 場所:その片隅に質素な道祖神の祠が祭られていた大字御所平地区の公民館の広場。火の見櫓や消防団の消防ポンプ、多分庚申塔のようなものがあった。 参加者:小学生の男子。地域住民。 内容:いわゆるどんど焼きの「火祭り」は小正月の1月15日の夜に小字の住民が集まって行われました。 地域の小学生の6年生が「親方」となり、それ以下の小学生男子が「子方」となって年末に大人に助けてもらって近所の山から枯れ木や木の株などをリヤカーで積み下ろし、正月の初めから広場の真ん中で太鼓を叩きながら焚き火を続け(夜は近所の大人が燠を持ち帰った?)、正月休みが終わると近所の大人が火の番を行いました。子どもたちは学校が始まってからも夕方になると広場に集まり、火の番を行いました。15日の朝、地域の各戸の戸口に出された松飾を子どもたちが集めてから、改めて獅子舞の道具を公民館の倉庫から取り出し「道祖神の御年始」と唱和しながら地域の全戸を廻り、獅子舞を披露し、獅子の口で住民の頭を噛み、無病息災を祈りました。そのお礼に子どもたちが共同でお年玉を受け、それを後日子どもたちで学年順に多寡をつけて分けました。15日は夕方から大人たちが山から集めてきた杉の葉と集めてあった松飾で「神社」型の「神殿」を作り、夕方6時頃にそれを焚き火の上に載せ「どんど焼き」を行いました。この「神殿」のことを「かんがりや」(神上がり屋、かんがりや?、隣村の南相木村ではこの行事を「かあがり」とも言うそうです)と呼んだように思います。母や祖母は、上新粉そのものと、それに食紅や緑の色素を混ぜ、白、紅、うす緑の「おまいだま(御繭玉)」という団子の一種を作り、木の枝に挿して稲の穂のようにして、神棚に祭ったものを、子どもたちがどんどん焼きに持ち寄り、炙って食べました。正月の切り餅を持ち寄ることもありましたし、また書初めを燃やしその燃えカスが天に昇れば昇るほど書が上達する、どんどん焼きの火に当たると風邪を引かないなどとと言い習わしました。 趣旨:現在はどのように行われているかはわかりませんが、厳寒の中、年末から小正月まで続く子どもたち(男子)が主体となって行う祭礼で、春秋の村社の祭礼と並んで盛大なものでした。小字単位で同時に行われたため、他の地区の祭礼の様子は互いにほとんど知らないままです。 この祭礼自体道祖神の祠のそばで行われ、獅子舞を「道祖神の御年始」と唱えて各戸を回ったように道祖神のお祭りであり、「かんがり」と呼んだのは恐らく「歳神様」を天に「神上がり」していただくことに由来するものだと思います。川上村の「かんがり」「かんがりや」、南相木村、北相木村の「かあがり」については全国的にも類似の呼称はないようで、小正月行事の呼称としては珍しいものではないかと思います。このように道祖神、獅子舞、火祭りなど様々な信仰、習俗が習合したものだったように思います。 関連記事:2006/01/10 新海神社は延喜式内社ではなかったが・・・ 2008年 08月 07日
この春に、杉並のアニメーションミュージアムを見に行ってきた。最寄駅が荻窪ということで、そういえば、20年ほど前「佐久信」というあまり流行っていないラーメン店をテレビ番組が後押しして、行列のできるラーメン店に再生するという番組があったことを思い出し、荻窪ラーメンでも食べようかと思って、帰路駅周辺を少しみて回ったが、どうもブームは去ったのか、荻窪ラーメンの行列らしいものはどこにも見当たらなかった。
横浜のラーメン博物館には、荻窪ラーメンの名店が出店していて食べたことがあるが、まさに昔懐かしい昭和30年代の味だった。 「佐久信」をネットで検索してみたところ、もう既に閉店しており、その店主だった人がテレビにより急に有名店になった顛末を綴ったノンフィクションを出版したことなどが分かった。 そのついでに荻窪ラーメンのルーツのようなことがいくつかのサイトから断片的に見えてきた。どうも戦前か戦後に店主が信州出身の日本蕎麦屋が荻窪周辺にいくつかあり、それが中華麺も出していたのが、ルーツらしい。信州の「信」を使った店名が多いのが、その証拠のひとつらしい。 「佐久信」と言えば、その字面からみると、佐久に関係があるようだが、恐らく上記のノンフィクションには、店名の由来なども載っているのではないかと想像する。 信州と荻窪には意外なつながりがあるようだ。 2008年 04月 20日
以前からwikipedia記述で知っていたが、食料自給率の絡みで取り上げられた。日本一のレタス生産も結局は中国の労働力頼みで、それも日本のアルバイターが敬遠したからだという。
2008年 03月 08日
ちょうど、中国製冷凍餃子への農薬混入が問題になっている昨今なので、まさにタイムリーな『食の安全』の号が発売されて、購入した。これまでの外国産農産物、狂牛病、食品添加物などの問題を扱いながら、これからの希望の持てる話の一例として、長野県の新規就農里親制度(今回初めて知った)を利用して、若い世代の人が、佐久市や佐久穂町で就農を始めたことが紹介されていた。
長野県は、農業が盛んではあり、特に野辺山高原一帯は高原野菜の一大産地、佐久穂町付近も菊などの園芸が盛んだ。 私の父母も佐久の農家の出身なので、農業の話題は昔の苦労話と豊かになった今との対比の話が多いが、農家の生命の根幹を担う食品を生産、供給する側としての責任は改めてクローズアップされてきているように思う。 この『美味しんぼ』で書かれていたが、とにかくバブル崩壊後の低成長下の日本では、安いものを求めてきたが、それが逆に労働者の賃金上昇を阻んだ結果、この数年の好景気と呼ばれた時代でも、収益の分配率が欧米に比べてあまりにも低すぎる状況を招き、内需は低迷するという状態になっている。その理由のひとつとして、中国やアジア諸国から、経済格差を基にした不当に安い値段の食料の調達があった。これが、餃子問題でも改めて注目されている。 なかなか読み応えのある漫画だった。 2008年 02月 24日
2008/2/23(土)朝日新聞 3版 夕刊 第10面にの文化欄(culture & entertainment)のテークオフという記事で紹介されていた。「旧石器研究 易しく伝える」。
堤隆(つつみたかし)さんという御代田町職員の方で、御代田町町営の浅間縄文ミュージアムの学芸員だからなるほど公務員なんだと思った。ちょうど私と同世代の人だが、このブログでも紹介したことのある野辺山の矢出川遺跡などの周辺で見つかっている後期旧石器時代末、今から約1万数千年前の「細石刃」(さいせきじん)が専門の研究分野なのだという。考古少年だった中学生の頃から野辺山に出かけていたというので、年季が入っている。地方の研究者がこのような賞を受賞することは稀なことらしく、本人の談話でも「励みになる」と書かれていた。まずは素直に受賞を祝福したい。 日本列島に最初に住み着いた人々、寒冷期の時代、とくれば、ナウマンゾウを想像する。野尻湖のナウマンゾウは約4万年前からいたというし、野尻湖人もその頃から活動していたらしい。それよりも少し時代は下るのだが、先日も訪れたあの野辺山高原で(地形は変わってはいるだろうが)、マイクロな石器を木の棒に埋め込むという手間のかかるやり方をしていた人々がいたらしいのは、非常に不思議な感じだ。(wikipedia ) 野尻湖人の4万年前という時代は、旧人とされるネアンデルタール人の滅亡が3万5千年前とされるため、微妙なところだが、「野辺山人」は完全に新人(ホモ・サピエンス)であり、現代日本人の直接の祖先の系統の1つなのだろうと思うと感慨深いものがある。 なお、この野辺山近辺のレタス畑は、私の親戚の畑も多く、学生時代には農繁期の手伝いに行ったこともある。比較的山裾の新規の開拓地の方では、森林との境界部分に、石器と見まがうような適当な大きさの形のいい石が多量にあったのを覚えている。それこそ沢山あった。そのことを父に話し、確かに山を削った斜面にはそのような石が以前から沢山あるので、それが人為的な石器なのか自然石なのか見分けは難しいだろうと話したことを思い出す。 2008年 01月 13日
下記に紹介した遺跡の説明会に、弟が行ってきたということで、この年末年始に帰省した際に、その遺跡紹介のパンフレットを見せてもらった。最近の道路開発などで、各地が掘り返され、今回の「郡」の文字のような文字が読める出土品や、印鑑のようなものもいくつか出土しているらしい。
さて、昨年の長野県内の遺跡発掘では、中野市の柳澤遺跡の出土が全国的にも注目されたらしい。時代的な前後関係はよく知らないが、もっと以前に発掘された飯山市(木島平村?)の鉄剣などと並んで、日本海側、千曲川ルートの文化の伝播等を想像させるものだと思う。 戦国時代に、下水内地方に勢力を張った市川氏(市河氏)にしても、今でこそ奥信濃などと僻地的に呼ばれることが多いが、当時は千曲川の水運により、相当開けた土地だったからこそ、豪族として有力視されたのかも知れないなどと思った。 2007年 11月 06日
Wikipediaで、律令制頃の信濃国の国府に関係して議論になっている。初めは、その議論の当事者ではなかったのだが、平安時代の一次史料(資料)には筑摩郡としか出ていないことを根拠にして、それ以前に小県郡にあったと推定している学説(長野県の歴史研究では通説だろう)をwikipedia記事から抹消しようとする編集者がいるので、その人の編集を取り消しているうちに遣り合う破目になっている。
Wikipediaは独自研究を認めないというガイドラインがある。一次史料に書かれている事柄はその一次史料が成立した時点の情報としては相当信憑性が高いことは認めたい。しかし、一次史料成立前の事柄について何も書かれてはいない場合、「一次史料のみに頼り、一次史料に書かれていないことは全て間違っている」(つまり小県国府があっただろうという推定が間違いだということ)という論理展開自体が一つの学説で、それが公開された論文や書籍に掲載されていなければWikipediaでは独自研究に過ぎず、そのような独自研究は自分のサイトで展開するのは勝手だがWikipediaに書かれていた学説で、自分の独自研究に合わない部分を全て削除することはガイドラインを逸脱するものだという趣旨を繰り返し説明(ネットでは論争相手のリテラシーが低い場合、またはわざと韜晦している場合にはもどかしい)してようやく編集合戦が終息している。 全国的に見ても、国府(都市)、国衙(役所)の遺跡が発掘されたり、特定されたりしたケースはそれほど多くないらしく、上田の国分寺跡のように、近くに国分寺を伝える寺が存続し、礎石が立派に残っているのは珍しいようだ。相模の国などは、国府(小田原に国府津という地名はあるが)は位置も明確ではないようだ。 さて、国府について調べていて、令制国の下にあった評(こおり)、郡である佐久郡の記事を少し書き加えようと思い、郡衙についてネットで調べたところ、佐久市の長土呂の西近津遺跡群のニュースが目に入った。佐久地方を南北に縦貫して山梨県に入り、静岡県に達する自動車道の工事現場からいくつもの遺跡が出土しているのだがそのうちの一つで、弥生時代の竪穴式建物としては国内最大級ものが見つかったり、平安時代の銅印が発見されたりしたという。このあたりが、佐久郡の郡衙推定地に近い場所とのことだ。 地図で確認すると、発掘現場は、我が家が父の知り合いの家から家庭菜園用に借りていたことのあった場所に近く、父はその畑周辺から土器の破片や、瓦の破片なども表面採取で結構採集してきて、現在も保管している。今回のような大工事がなければ、古代史研究者が郡衙推定地として予測していても調査は適わなかった場所なので、その意味では開発もむげに否定できないものかも知れない。 現代では、濁川が田切地形の崖下を流れ、水利のあまりよくない場所で、ほとんど畑として使われており、集落はほとんどない場所だが、広々とした見晴らしのよいところでもある。また、近くの駅名・地名に 中佐都(なかさと)というものがあり、この地名がいつから成立したものかは分からないが、郡衙があったと推定され現に大集落が発掘された場所の近くにあるので、意味深な名前に見えてくるから不思議だ。 なお、佐久の神社については、新海三社神社が一の宮として古くから信仰されているが、奈良・平安時代の郡衙が長土呂に推定されていることから考えると、長土呂にある近津神社(新海三社神社関連の記事で少し言及している)も郡衙推定地に近い比較的規模の大きい神社として注目されるかも知れない(近津の昔の地名は千鹿頭=建御名方の子の名前だったという)。 日本語とアイヌ語関係サイトに近津・メモという興味深い記事があった。 その後、11/7の信濃毎日新聞に、西近津遺跡群からの出土物として、楷書の「郡」が書かれた土器が発見されたというニュースが出ていたので、wikipediaの「佐久郡」に追記した。これにより、西近津遺跡群の周辺が一層郡衙の跡の可能性が強まってきたようだ。 この11/11(日)には現地見学会が開かれるという。 横浜市では都筑郡衙が特定され、横浜市の歴史博物館(その近辺に大規模な弥生遺跡である大塚・歳勝土遺跡がある)でその復元模型が紹介されている。 都筑郡衙跡のように、西近津遺跡群も高速道路の工事とともにまた地中に埋められてしまうのだろう。開発がなければ発掘による発見もなかったのだろうが、何か矛盾を感じる。 2007年 10月 23日
漱石展を見に行っていろいろ刺激を受けたので、漱石についての関心が再燃している。
漱石の妻 鏡子の『漱石の思い出』を読んでいるが、いわゆる修善寺の大患の危篤状態から回復した後に、長野県からの講演の依頼があり、妻鏡子を伴って国鉄高崎線、信越線経由で、軽井沢(教育会の出迎えと会った)を経て長野の犀北館に宿泊し、善光寺に詣でたことが書かれていた。(信越線は、全国の鉄道の中でも比較的早く設置され明治の半ばには直江津まで開通していたようだ。碓氷峠越えは、多分アプト式だっただろう) その後、今の上越市 高田で、修善寺の大患のときに世話になった長與病院の医師宅に招かれ、諏訪でも講演したことが書かれている(これは恐らく岩波茂雄の縁ではあるまいか)。松本にも訪れたようだ。 また、このサイト http://www001.upp.so-et.ne.jp/fukushi/soseki/nagano.html によれば、その翌年湯田中渋温泉にも来訪しているが、これも上林温泉に友人の中村満鉄総裁と出かけたことが書かれていた。 なお、長野での講演会について、日垣隆が http://homepage2.nifty.com/higakitakashi/kouryou/kouryou04.html というエッセイを書いている。妻鏡子の同伴の理由と講演会での謝礼の件がどうやら新発見のようだ。 夏目家系譜 http://www2.harimaya.com/sengoku/html/natume_k.html によると、漱石の家系は古くは長野県の夏目という地名までつながるようだ。面白いことに、徳川氏の家来の奥平家に仕えた夏目氏は、大分の中津藩では福沢諭吉の福沢氏と同僚だったようだ。ちなみに、福沢氏も先祖は長野県の茅野あたりの人で、その石碑も立てられているという(このblogでも書いた)。 ところで、タイトルとは関係がないことで感心したこと。この『思い出』を読んでいると、漱石が、鉄道や船を使って、愛媛、熊本など何十時間もかかるはるか彼方に旅をしているが、行ったきりではなく、見合いのために帰省したり、見舞いや葬儀のために帰省したり比較的頻繁に長距離を旅行しているようだ。 2007年 09月 08日
台風一過の秋晴れの日、昼ごはんをたべに出たついでに、川崎市にある岡本太郎美術館に行ってみようかということで、カーナビで場所を調べたところ、生田緑地にあるということで、その方面にクルマを少し走らせた。
専修大学の生田キャンパスの入り口を少し入ると市営の駐車場があり、そこにクルマを置いて案内図に従って入ったところ、川崎市立の日本民家園という表示があり、面白そうなのでまずそこに入ってみることにした。大人500円、小中学生は無料だった。 正門と反対側の西口の方から入ったため、順路は逆になってしまったが、パンフレットを見ると、国の重要文化財に指定されている民家が多く、次々に茅葺の今となっては珍しい民家が見れら、それぞれ土間の部分には自由に立ち入りができ、面白かった。神奈川の村は、この民家園ができるきっかけになった家々がならび、東北の村では、「どんど晴れ」にもでてきた南部曲がり家を見ることができた。その後、関東の家では網元の家などもあり、次の信越の村では、越中や五箇山や飛騨白川の合掌造りが数軒あり、最後に、佐久は八千穂(現、佐久穂町)の上畑から移築された 重要文化財 旧佐々木家住宅 (昭和42年移築復原工事完成、同年重文指定)があり、驚いた。ちょうど、戌の満水の前の享保年間に建築され、その後寛保2年の戌の満水を免れたが、同じ村が大きな被害を受けたため、村そっくり今の位置に移ることになり、移築されたのが、寛保2年の末から翌年春にかけてだったという文書記録が残されており、貴重なもののようだ。 父の実家がこの近辺であり、親戚が畑八にあるということもあり、非常に懐かしかった。未だ私が高校生の頃まで、父の実家も江戸時代に立てられたという茅葺屋根の古い農家を、現代風に手を入れながら住んでいたし、私が幼い頃などは、囲炉裏を囲んで食事をし、箱膳も使っていたし、トイレもちょうどこの民家園のように外にあったものだった。そういう記憶も手伝い、非常に懐かしかった。園内の路傍には、佐久穂町から運ばれてきたという馬頭観音や庚申様、道祖神なども置かれており、まさか川崎で、佐久の風景に会えるとは思わなかったので、奇遇を感じた。 佐々木家住宅の後は、長野市から運ばれた水車小屋があり、その後、伊那から運ばれてきた三澤家などの宿場、商店などが並び、正門の手前の展示室に続いていた。 P.S. 全部を見終わるともう4時過ぎで、正門から退出した後、緑地公園をブラブラ散策すると、科学館前に寝台車、D51の展示があり、子どもたちが走って行った。科学館は無料で、川崎から出土した化石(アケボノゾウ)や生物の展示などがある比較的小規模の施設だった。岡本太郎美術館は大人700円ということだが、もう入館時刻を過ぎていたので次回に回した。この公園は野趣溢れる森林が周囲を取り囲み、なかなかいい場所だが、交通の便が悪いようだ。なお、数年前に閉園した向ヶ丘遊園は、この公園の続きにあるらしい。現在は薔薇園として公開されているようだ。
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