ふるさと佐久


by newport8865
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佐久の郡

佐久の郡は、長野県(信濃国)の東部、北を浅間山の外輪山の連峰、東を関東山地の西端、西を八ヶ岳連峰、南は関東山地に八ヶ岳の東裾が覆い被さるような高台(野辺山高原)によって四方を囲まれた南高、北低の盆地地形にあり、その盆地 佐久平を東端の川上村の深山から発する千曲川が南から北に貫流している。

標高は、最も低い佐久市の辺りで600m、人里でも川上村や南牧村などでは標高1000mを越える高冷地であり、夏は涼しく冬はマイナス20度Cにも達する厳寒の地である。


佐久の地名は、直接でないにしろ、歴史の中にときおり登場する。「望月のむまや」は、現在の佐久市望月町にあった、官営の東山道の駅舎のことだろうといわれるが、これは、平安時代、ちょうど西暦1000年前後に清少納言によって書かれた著名な随筆「枕草子」に登場する。(ちなみに、同じ枕草子には、現在の別所温泉が七苦離(ななくり)の湯として紹介されている。)平安時代の佐久地方といえば、後の木曾義仲の挙兵に加わった豪族伴野氏などが伴野郷根々井氏などが活動していた頃だろうから、それなりに水田が開拓され、ある程度開けた土地だっただろうが、今猶山深い東山道(その後の中山道)などは、周囲に原生林が生い茂り、ニホンオオカミやクマなどの猛獣も山野を跋扈していたものと思われ、都までの道程は想像を絶するものだったと思われる。そのような時代に、既に都の殿上人の間に、望月や七苦離が知られていたというのは、感慨深いものがある。

東山道といえば、さらに時代を遡る奈良時代の御世に、東国からは、九州防衛のため、防人と呼ばれる徴兵された兵士が、この道を通って都から更に西の涯に旅をしていったことが、万葉集に東歌(防人の歌)として記録されている。「信濃路は今の墾道(はりみち) 刈株(かりばね)に足踏ましむな 沓(くつ)はけ わが背 (万葉集第3399首)」

さらにはるけき昔、紀元前1万年まで遡るといわれる縄文時代の、その中期に、この佐久が含まれる八ヶ岳山麓は、縄文文化の繁栄の地だったと言われる。千曲川(信濃川)源流の川上村、大深山(おおみやま)遺跡は、千曲川の河岸段丘上に位置する縄文中期の遺跡として有名で国の史跡に指定され、優れた縄文土器が発掘されている。また、さらに時代を遡ると、同じ川上村内の馬場平からは旧石器、野辺山の矢出川などからは旧石器時代の細石器などが発掘され、日本列島の人類史においても重要な土地だと言えよう。

(これから佐久地方に関係する様々なことどもをメモのように書いてみたいと思っています。)

なお、佐久地域の歴史についてはこのサイトがよくまとまっており、参考とさせていただきたいと思います。

また、表紙の浅間山と千曲川の素晴らしい風景写真は、このサイトより借用させていただいております。
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by newport8865 | 2005-11-15 19:59 | 地誌