ふるさと佐久


by newport8865
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新海神社は延喜式内社ではなかったが・・・  

諏訪大社の祭神 建御名方富命・八坂刀売命・事代主神。

新海三社神社の祭神 興波岐命・建御名方富命・事代主神。
http://www.dynax.co.jp/sinsen/culture/jinjya/j_shinkaisanjya.html

神代の昔、興波岐命が父君建御名方富命(大国主命の第二子・諏訪大社の主神.事代主命は、建御名方富命の兄君)を補佐して科野(しなのの)國を作り、後佐久地方の洪水を治め沃土を広め、その功を終えてこの地に鎮座された。古くは佐久郡を巡幸し、祭事は最も尊厳に行われた.西本社は、相殿造りで、源頼朝の命により誉田別命(八幡大神と称せられる応神天皇のこと)を奉斎した.源氏の尊崇が篤く、また武田信玄も社殿造営など深く崇敬し、起請文と鰐口・梵鐘を寄進した.佐久の一の宮


諏訪も佐久も国つ神系を祭神とする神社であり、大国主の命の息子、孫を祭ることで共通するが、諏訪神社という名前にはならなかったのはなぜか?何かルールがあるのだろうか?



「神奈備にようこそ!」の延喜式神名帳 神社一覧
東山道神 三百八十二座 大 二座(就中五座。預月次。新嘗祭案上。)小 三百座
  近江、美濃、飛騨、信濃、上野、下野、陸奥、出羽
の信濃の国では、信濃國:48座 大7小41 があがっている。

うち佐久郡はわずか三社しかない。(延喜式は、西暦927年に成立。なお、相当古い神社でも式内社でないものもある。それらを式外:しきげ というらしい。石清水八幡宮、北野神社など)

なお、諏訪大社は式内の大社として載っており、また佐久の新海三社神社と何らかの関係があると思われる甲斐の国の佐久神社も式内社である。

ちなみに
佐久郡[サク]:3座 並小 (なべて小社と訓むのだろう)

英多神社[エタ](佐久) 訪問したことあり。山間の物寂しい神社だった。この英多は字名の英多澤によるものらしいが、神社が先か地名が先か?祭神はタケミナカタノミコトであり神紋も諏訪大社系の梶の紋なので諏訪社の流れだろう。 (なお、英多の字は、あがた の美称でもあるという。Google で 英多 語源などで検索するとヒットする。なお、信濃国のあがたについては、信州考古学探検隊のページにあった。)

長倉神社[ナカクラ](軽井沢) 当時の神社は浅間山の火山灰に埋もれてしまったらしい。

大伴神社[オホトモ](望月)

寛政の時代、佐久市にある新海神社は、佐久郡内一の大社であり、
佐久郡内の各神社の神官は、新海神社の神事へ奉仕することになっていたが、
当社英多神社・長倉神社・大伴神社の三社は式内社であることを理由に、拒否。
それに対し、新海神社は寺社奉行へ訴訟を起こすという事件があった。

玄松子さんのページより

新海神社は、佐久一宮とされるが、その成立はいつ頃だろうか?ネットには詳しい記事がまだ見つからない。比較的新しいのかも知れない。記録的には、源頼朝の命によって「誉田別命」(応神天皇)を合祀
したとされるから、それ以前からあったことは確かだ。また佐久神社は、甲斐源氏の末である武田晴信(信玄)にも崇拝されたというが、武田氏による佐久侵攻に伴って甲斐の国の佐久神社が分社されてきたという可能性はないだろう。

神社のある裏山には、復元された古墳がある。幸神(さいのかみ)古墳群というらしい。

さいのかみ と言えば、賽の神さいのかみ【道祖神・幸の神・斎の神・塞の神】=さえのかみ(道祖神)である。つまり、ミサクチ(ミシャクジ)の神に繋がる。また、銅剣を多く出土した出雲の荒神谷を連想させる。現在リンク切れのような状態だが、かろうじて下記の記述を拾い出せた。

幸 神 古 墳 群 さいのかみ こふんぐん
 指 定  町史跡  昭和47年5月5日
 所在地  臼田町大字田口4804外
      (幸神、外九間、中原)
 所有者  新海三社神社

 雨川右岸に形成された広大な扇状地の台地上には、臼田町で最大の面積
(約15万㎡)を有す原遺跡が所在している。遺跡地内には、幸神、外九間、中
原の各地籍に12基の古墳が存在し、これを幸神古墳群と総称している。古墳
群の中で比較的原形をとどめている4基が町史跡として指定された。 

 写真に示した幸神1号古墳は、墳丘が3分の2程度残っており、臼田町に所
在する計50基の古墳中では、原形をとどめている点で最高の資料である。築
造当時における12基の古墳は、幸神1号古墳とほぼ同規模の状態の墳丘が
築かれていたとおもわれるが、盗掘や耕作の関係から徐々に削りとられ、石室
が残っているのは指定された、幸神1・2号古墳、外九間1号古墳、中原1号古
墳の4基のみとなった。

 史跡指定の4基の古墳は、墳丘径10~12m、高さ3~3.5mを測り、玄室
は幸神1号古墳が最大で3.6×3.2mを測る。その他は2m×3m前後の玄
室が築かれている。羨道は、長さ2.8m前後、幅1.5m前後を測る。幸神1号
古墳は羨門から羨道の部分が土中に埋もれているため、原形を残していること
が予想され構造の手がかりを得る貴重な資料となるであろう。

 古墳の築造年代は、調査が実施されていないため明らかではないが、昭和63
年実施した原遺跡の発掘調査で、古墳時代末期から奈良時代にかけての大集
落の存在が認められたことにより、この集落の人々が築いた古墳であると考え
られる。




このころからこの地は古墳時代からの信仰の地だったのであろう。いわゆる「佐久の王」の墳墓だったものだろうか?

神紋については、残念ながら網羅的によくまとまった玄松子さんのリストに新海三社神社がないので、他の紹介ページを参照すると、本殿の垂れ幕?に紋が見える。これは、立梶の葉なので、紋から言っても諏訪系だろう。


また、諏訪の「先宮神社」と佐久の新海神社が関係するという興味深い記述があった。ここに述べられている内容は少々理解しにくいところがあるが、文字そのものは明らかに「佐久」 「新海」を含んでいる。 
●先宮神社の社名の由来
先宮神社の社名は、「佐久新海(佐久ノ新海)、佐久新海明神(佐久新開明神)、さき志んかい、真海社、新海宮社、鷺宮(鷺宮神社)、鵲宮、先宮(先野宮)、先宮社、先宮神社」と称せられてきております。 


ただし
●先宮神社の創立
 先宮神社については旧記が散逸していて正確な資料がなく傳えられている口碑によるしかなく、神社誌を綴る事は大変難しいこてであります。その口碑も正確に伝承されたものか、後世のものであるか判断に苦しみます。前述のように鎮座の前提となった原始時代における諏訪地方の信仰状態や、祭神奉祀の経過を考えながら推測する以外に方法がないと思われます。
とあるように、口碑自体が後世にさまざまな影響のもとに変容していったこともありうるので、上記の「佐久新海」という文字面も後世諏訪と佐久との交流が盛んになった時代に形成されたものということもありうる。


さらに、
深谷市では利根川に近い大字新戒(しんがい)の古櫃神社(http://homepage3.nifty.com/nireyamajinja/ohsato/26kohitu.htm)が秦氏の祖神を祀ったと由緒にありますが、平成CDではその「本領」とする長野県南佐久郡臼田町大字田口の新海三社神社の由緒に秦氏のことはありません。

神奈備にようこそ」に、この記述あり。

新海三社神社については、このような展示もあったらしい。(国立歴史民俗博物館の「なにが分かるか、社寺境内図 平成13年10月2日(火)~12月9日(日))このような貴重な記録が残されているということからみても、この神社の繁栄がしのばれる。

信州の神社 http://www.dynax.co.jp/sinsen/culture/jinjya/ に紹介あり。

ところで、佐久の風はふるさとの風は、佐久に関する素晴らしいページだが、新海三社神社の紹介があり、ここに非常に示唆的な記述があった。

「うえ右の写真中央がが「にいさく」の神、「與波岐命」を祭っ東本社、後に三重の塔が聳える。説明には別名「御佐久地神」也「佐久」は「サク」拓くことを意とする。とある。」


御佐久地神!読み方次第では、「みさぐちのかみ」、つまり古代信仰で耳にする、みしゃぐちのかみ、みさぐちのかみのことではないか! ミサグチノカミについては、諏訪神社の縁起にも深い関係があるとされ、自分の記事でも面白い記述としてリンクしておいた。縄文時代にも遡るという古い信仰だという。

ミサグチ神の研究では、今井野菊さんという方が先駆的な研究を行っているという

信濃国の天白神、ミサク神研究者である今井野菊氏の報告によりますと、ミサク神(ミサクチ神)も諏訪の固有神ではないことがわかります(同神をまつるのは、長野県675社、静岡県233社、愛知県229社、山梨県160社、岐阜県116社とされますが、三重県には140社が確認されるとのことです…清川理一郎『諏訪神社 謎の古代史』彩流社)。三重県=伊勢の地にミサク神の祭祀があることは、天白神と同根の神であることを示唆しています。諏訪のミサク(チ)神に、神宮の元神である伊雑[いさわ/いぞう]神の名が散見されることが、それを端的に表しています(小口伊乙『土俗より見た信濃小社考』)。
 東北伝説(http://www5.ocn.ne.jp/~furindo/)の掲示板 「千時千一夜──瀬織津姫&円空情報館より

古代信仰対象の「ミサグチ」の当て字 御佐久地 から 佐久という地名が生じたというのはどうだろうか?ただし、多くのミサグチ系の神社がそのような当て字は使わず、「御社宮司社、御射山社、社宮社」と表されることが多かったようだ。そうなると、これが当て字だとする根拠は弱いが、美称としてはありうるだろう。

こう書いたが、google で 「佐久 "ミサクチ" OR "ミシャクチ" OR "ミサグチ" OR "ミシャグチ" OR "みさぐち" OR "みしゃぐち" OR "みさくち" OR "みしゃくち"」で検索をかけたところ、このミサクチの当て字として 佐久神が用いられているようだ。諏訪大社と新海三社神社との距離的な近さ、祭神の共通性から言ってもミサクチから美称の佐久が出たということは十分考えられるのではないか。諏訪が古代信濃の中心地だったことはほぼ確実だが、佐久はそこからみると僻遠の地。僻遠の地に言葉の源流的なものが残されることはよくあることだから。 

古代であそぼ掲示板には、佐久の近津神社のことで興味深い記事が載っていた。


関東と諏訪をつなぐようにみえる近津チカツという社名の神社に注目しています。
伊弉諾伊弉冉神の前の代の青橿城根尊(アオカシコキネ=面足尊オモタル、奥方は惶根尊カシコネなど)を祀っています。
茨城や千葉に多いようで、社名は違いますが東京にも2社あり(1社はスサノオも祀る)。
面足尊(七代目が伊弉諾伊弉冉神なので第六天神ともいう)として祀られるのは古事記の神代系譜に習合させたからだと考えています(だから生き残っているのかもしれない)。

長野県佐久市にも近津神社があるので観光課に問い合わせたら昔の地名が千鹿頭だったことがわかりました。
(大蛇と池が由来の神社)
千鹿頭とは諏訪の千鹿頭神(建御名方の子)に違いなし。


また、佐久穂町(旧佐久町)の巨大な石棒(年代は不明らしいが)のこともこの検索から出てきた。

これについては、信州発考古学最前線のvol.18 佐久の日本一の大石棒
http://homepage3.nifty.com/kamosikamiti/sonota/saizensen/H14win.html
が詳しい。


言うまでもないが、神社信仰は、アニミズム的な山、川などの自然の神格化はもとより、由緒の古い神社の多くは、ある時代のその土地の開拓リーダーを神格化して祭ったのであろう。また、風水害・日照り・冷夏・地震・疫病などの災厄やたたりから免れ、食料の収獲・収穫を安定化しようという意図が強いものだろう。同じ意図から、たたりから免れるための鎮魂のための神社もあるようだ。

みさぐち信仰は、縄文に遡る土俗的な信仰に繋がるもののようだが、縄文文化が栄えた諏訪の八ヶ岳山麓、及びその裏側の佐久の八ヶ岳山麓に同様の土俗信仰の痕跡が残されていると想像することは自らの遠い祖先たちからの呼びかけ・インスピレーションのような気がする。(少々神懸り的になってしまった)

ただ、起源、由来などを調べていくと、超自然的的な記事にも突き当たることがある。信仰の世界との境界ゆえやむを得ないことだが。また、諏訪地方の考古学の偉人藤森栄一や柳田国男の名前などが垣間見える。また宗教学者中沢新一の「精霊の王」が道祖神、ミシャグチ神をテーマとしているらしい。

佐久の駒形神社についても記述あり。
ここのところ駒形神社を調べていて、長野県佐久市塚原に興味深い駒形神社があることをみつけました。ここの祭神は、「騎乗の男女二神体」だというのです。記紀に準じた祭神名は、表向きはウケモチ神としていますが、主祭神は「騎乗の男女二神体」とことわっている、珍しいケースです。
 駒形神はあとから馬神となっていきますが、もとは水神かつ養蚕神でした(詳しい話は近日に、ここに書きます)。佐久の駒形神社の祭神は、神の依代=乗物としての「馬」、つまり神馬[じんめ]を、もっとも端的に表しています。



道祖神ももともとミサクチ神から由来するものらしい。
 佐久で暮らした子どもの頃、小正月の道祖神の祭りは子ども行事としては最大のイベントだった。正月には「道祖神の御年始」と掛け声を掛け、小字(こあざ)の集落の中の家々を訪問して獅子舞をして小遣いをもらい、小正月には「かんがりや(神上がり屋?)」というドンド焼き行事を大人子どもが一緒になって祝った。お繭玉(おまいだま)と称する上新粉を練って緑や桃色に彩色した餅を木の枝にさし、神棚に飾ったのち、ドンド焼きの火にかざしてから食べた。書初めもその火で燃やして字の上達を祈った。

かんがりや については、神仮屋とふってあるページがあった。語感から、神上がり(神が天に帰る、天子が崩御する)屋かと思っているのだが。また、かんがりや を 「かんがり」と短縮している方が多いようで、結構ヒットした。「かんがり」を「かあがり」としている例もあるようだ。かがりびの転訛というふうに考える向きもあるようだ。

このドンド焼き、門松を簡単に積み重ねたり、塔のようにする形もあるようだが、私が子どもの頃に経験したのは、山から杉?の葉を多く採集してきて、各戸の門松とその杉葉で社殿の形を作り、お繭玉を飾り、それを子ども達が正月から太鼓をたたきながら神社の傍らで保ってきた焚き火の上に乗せ、ドンド焼きを開始するというものだった。その社殿の形から、神が火に乗って上がる社 = かみあがるや 転訛して カンガリヤ との推測だ。山奥の村だったので、かんがり まで略されず古形を保ったのではあるまいか? 

道祖神は さえのかみ(さえぎるかみ)と呼ばれるが、記紀神話では、イザナギがイザナミの行ったヨミの国から逃れる際に 磐石(まるい石だろうか)を投げ(さえのかみ)、杖を投げ(ふなどのかみ 道祖王をふなどのおおきみとも訓む)、地上の国に逃れたという。この辺はここに詳しい。

長野県内(旧大岡村)には非常に特異な道祖神がある。これは鹿児島の甑島に伝わる年神様 トシドンや秋田のなまはげを連想させるもの。むしろそれよりいわゆる南洋の仮面神を想像させる奇怪な面相だ。
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by newport8865 | 2006-01-10 19:39 | 地誌