ふるさと佐久


by newport8865
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信濃源氏平賀氏

信濃源氏平賀氏・大内氏について という論文がネットで掲載されている。東大助教授本郷和人氏によるもの。

『松本市史研究』10号 00.3(分類A)
ずっと関心を持っていた平賀・大内氏についての最終言及です。平賀郷と伴野庄、平賀氏と伴野氏、そして小笠原氏の「七カ国管領」。このへんの推論の流れは我ながら見事。すごいぞオレ。とか思って「鏡の会」で発表したら、五味センセイに「ふうん。妄想じゃないのお」と言われてしまいました。ちゃんちゃん。
 との自己解説あり。

平賀城跡

 
井原今朝男 「信濃の鎌倉指向」
(『長野県の歴史』.山川出版社.1997年.p86以下)


 
元久二(一二〇五)年、時政は老臣畠山重忠〔1164~1205.42歳〕を討ったあと、妻牧の方とはかって将軍実朝〔1192~1219.28歳〕を殺害し、平賀朝雅を将軍職につけようとし逆に処罰された。平賀朝雅らは京都で討ちとられ、大内惟信らも幕政から排除された。捧荘や岡田郷なども没収され守護領となり、平賀源氏一門は信濃から姿を消し、わずかに越後国金津保(新潟県新津市)に小野時信や平賀資義(すけよし)の所領が知られるにすぎない。


日本苗字7000傑 清和源氏義光流

によると、新羅】義光─【平賀】盛義-義信(信濃源氏論文にも名前が出ている) その兄有義から【平賀氏】【金津氏】【木津氏】【新津氏】【金沢氏】が出ている。義信の子が朝雅(政)で牧の方の乱に巻き込まれる。

◆このうち 新津氏は、現在でも佐久地方に見られる苗字である。

戦国武将列伝の甲信越/北陸  には、新津氏が見られる。
佐久の平賀氏からの流れだということはここにも書かれている。牧の方の乱以前に、平賀盛義の子有義が新津市に所領を与えられていたのであろうか。そこを根拠として新津氏が戦国武将として上杉謙信の傘下で活躍したのであろう。

上杉謙信の家臣団に 新津勝資(かつすけ)の名前が見える。


上杉家臣団というページには、新津氏が旧信濃国人、国人衆(新津資相)、信濃源氏に分類されて出ている。

米沢にある 新津左近と言う人物のお墓が出ている (米沢上杉祭り関連) 米沢の林泉寺にあるようだ。新津城主だったとのこと。これが、上杉景勝の会津、米沢移封に従った新津氏だろう。

◆また、武田 家臣 新津 でgoogle 検索したところ、 もと上杉家の家臣だった新津右京の子が日向家に婿入りして武田家に仕えたという記事が多くあり。

日向虎顕(昌時の婿、新津右京の子、玄東斎) : 武田家臣団


これについて調べると、武田氏 は行

日向宋立(?~1608)

玄東斎。もと越後上杉氏の家臣・新津右京の子。

日向是吉の妹婿となり、武田氏に仕えた。

関東および越前、比叡山への使者を務めた。

武田滅亡後は徳川家康に仕えた。

1608年、死去。
とある。

これが旗本日向家の祖であろう。

徳川旗本八万騎の家紋 の ひ の欄には、

日向家 石持地抜違い鷹の羽
もと新津氏を称していたことから、越後新津氏と関係がありそうだが、頼光流小笠原氏の族と称する。代々、武田家に仕え、もと「松皮菱」を用いたが、政成が家康麾下に入る前、父東斎のころから「違い鷹の羽」を前面に押し出した。
とある。

なお、山梨県の新津姓の方のページに、越後上杉家家臣だった新津右京の子どもについての家系説話的な歴史が書かれている。

柏屋の歴史

現在わかっている柏屋の当主は、左記の通りです。 新津の姓は、武田信玄の時代、駿河の今川義元に塩の供給を止められた(現在で言う経済封鎖的なもの)とき、越後の上杉謙信が武田信玄に塩を送った美談がありますが、このとき信濃より塩の引渡しに参加した武将(上杉家臣新津右京の子供)で、その功績により武田信玄から巨摩郡落合の領土を頂き、落合に移り住んだと言われています。
これは、日向宋立その人かその兄弟のことではなかろうか?

佐久にある新津姓が、越後の新津氏と何らかの関わりがあるとすれば、「このとき信濃より塩の引渡しに参加した武将(上杉家臣新津右京の子供)」とあるのがそうだろうか?平賀氏の裔の新津氏が越後から信濃の佐久に一部戻っていたのだろうか?
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by newport8865 | 2006-01-17 20:08 | 地名 人名