佐久市の根々井と佐久町の館(楯)
2006年 01月 19日
木曾(源)義仲の重臣 根(々)井氏の館跡が佐久市岩村田の近郊、根々井の地にある。
根井氏館
地図はこれで、地図中の正法寺が館跡の一角を占める。この近在に、重文の駒形神社があるし、八幡(
やはた)宿に八幡神社と高良社がある。
参考:東御市 海野宿 白鳥神社
佐久穂町(旧佐久町)大字海瀬字館(たて)に、根(々)井小弥太の子?楯六郎の館跡とされるものがある。
先に紹介した信濃源氏平賀氏の前に佐久地方を支配した豪族たちだ。「源平盛衰記」にその名前や活躍が記されている。木曽義仲の挙兵に従い、北陸道から平家を追い落とし、京を占領する主力軍となったという。(NHK 大河ドラマ「義経」では 根井行親、楯六郎とも登場したようだ。どのシーンに出たのだろう。気が付かなかった。義経との越後での遭遇のシーン? 倶利伽羅峠のシーン? 京都占領、宇治川の敗戦のシーンのいずれかだろうか?)
義仲は京都占領後、後白河法皇に迫り「征夷大将軍」の院旨を受け「旭将軍」と通称されたが、その後従弟の義経に追討され、重臣ともども滅ぼされてしまった。滅亡後の信濃の地は大混乱だっただろう。恐らく鎌倉の頼朝は早速兵を入れ、戦後処理にあたらせたのだろうが、その戦後処理部隊が甲斐源氏の流れの平賀氏だったのだろうか?
参考:佐久町史 (これも「佐久の風はふるさとの風」さんのページ内の紹介。
このような市町村史は、郷土史家の方々の努力によって次々と発刊されているが、全国各地のそのような市町村史がが書籍として流通するだけでなく、ネット上にデータベースとして蓄積され、ネット検索できるようになれば歴史研究に相当役に立つものと思う。ネット上にこのように目次がテキストでアップロードされることにより容易に検索可能になるのだから、その効果は大きいだろう。いわゆる演繹的な研究ではなく、各郷土史の積み上げ的な帰納的な歴史像の形成が可能なのでは、などと妄想してしまう)
参考:木曽義仲の基礎知識(長野県出身の中学校社会科の先生を務めたことがある女性漫画家の方のページ)
参考:義経英雄伝というテレビゲームソフトにも「根井行親」や「楯六郎」が登場する。
木曽義仲史跡・伝説一覧
これら根井氏、楯氏の活躍、その後の平賀氏の鎌倉御家人としての隆盛(朝雅の将軍擁立騒動:牧の方の乱)など、中世の佐久の豪族が中央の政権の争奪に関与したということは、奈良・平安以来の官牧に由来する馬(つまり当時の有力な武器)の産地だったこと、またそれらの牧を管理するための組織がありを維持するだけの食料の生産力があったことを示すものなのだろう。
余談
なお、佐久のような田舎は古代以来天変地異は別としてそれほどの変化もなく推移してきたのではないかとつい想像してしまうのだが、平安・鎌倉時代だけをみても中央政界がらみの支配者の興亡はあるし、近世では、戦国時代には武田氏に蹂躙され、江戸時代にも大名の国替えが頻繁に行なわれるなど、庶民層の移転なども相当あったようだ。司馬遼太郎の「播磨灘物語」は黒田官兵衛を主人公とする歴史小説だが、黒田氏が播州で勃興するまでは、その父祖は近江からの流民で相当の苦労を重ねたという伝承を記している。中世、近世でも人々は天災・人災などでその土地で食えなくなると一家そろって他国に流浪してまで食い扶持を得ようとしたようだ。もちろん旅を職業とする遊行僧や行商人、放浪の旅芸人、職人など全国的に人々の移動交流は想像以上にあったのではなかろうか?
佐久にも有名な一遍上人が、遊行上人として何度も訪れているようだ。同行者たちがいた場合全国各地から上人のもとに参じて弟子となった人々ではないのだろうか?
鎌倉御家人の場合も、関東武士団の多くが全国各地に領地を得て、一族郎党と移住したようだ。神奈川の秦野市の毛利の庄を領地としてもらった大江広元(季光)の子孫が安芸の吉田に領地をもらって移り住んだものから後の毛利元就、長州の毛利氏が生まれたというし、またその一族は越後にも領地を持っており、そこにも毛利姓が残っているようだ。この例のように、御家人の領地はかなり全国に散らばっていたようで、同族のの領地間の交流もあったようだ。また転封によって一族郎党がそっくり移住することが多かったのだろうから、余計人々の交流範囲は広まったのではないか?
ちなみに、夏目漱石の遠祖は信州の夏目(なつめ)村(信州新町)から出たという。ここには「治武の子治貞は奥平氏に仕え、子孫は豊前中津藩の重臣となった。」とあり、夏目漱石の家系上の遠祖が、中津藩で福沢諭吉の先祖とともに働いていたということにもなるのだろう。
また福沢諭吉の先祖も辿れば信州だという(何かの小説 司馬遼太郎?で読んだ)
長野県に「福沢氏」ゆかりの福泉寺という寺院があるようだ。(長野県埴科郡坂城町網掛49 飯綱山 福泉寺)
また、
「信州福沢考」についてのblogに詳しい。
著名人の「家系伝説」的な先祖探しでは、上記のような例があり、長野県と大分県中津など今でもほとんど無関係な土地の間に血縁的には面白いつながりがある例が多いのではなかろうか?
しかし、「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」の福沢諭吉にしてから、自分のルーツを求める衝動を抑えられなかったのだろうか?
--------------
根井氏に関して秋田県のお寺の縁起に面白いエピソードがあった。信州から秋田に大勢移住したという伝承だ。
同じく秋田の土田家住宅。
根井氏館
地図はこれで、地図中の正法寺が館跡の一角を占める。この近在に、重文の駒形神社があるし、八幡(
やはた)宿に八幡神社と高良社がある。
参考:東御市 海野宿 白鳥神社
馳せ参ずる者、地元滋野一族をはじめ、義仲の四天王樋口次郎兼光・今井四郎兼平・根井小弥太・楯六郎親忠の武将を中心に、信濃、西上州の将兵等約3千余騎が集結した。
佐久穂町(旧佐久町)大字海瀬字館(たて)に、根(々)井小弥太の子?楯六郎の館跡とされるものがある。
先に紹介した信濃源氏平賀氏の前に佐久地方を支配した豪族たちだ。「源平盛衰記」にその名前や活躍が記されている。木曽義仲の挙兵に従い、北陸道から平家を追い落とし、京を占領する主力軍となったという。(NHK 大河ドラマ「義経」では 根井行親、楯六郎とも登場したようだ。どのシーンに出たのだろう。気が付かなかった。義経との越後での遭遇のシーン? 倶利伽羅峠のシーン? 京都占領、宇治川の敗戦のシーンのいずれかだろうか?)
義仲は京都占領後、後白河法皇に迫り「征夷大将軍」の院旨を受け「旭将軍」と通称されたが、その後従弟の義経に追討され、重臣ともども滅ぼされてしまった。滅亡後の信濃の地は大混乱だっただろう。恐らく鎌倉の頼朝は早速兵を入れ、戦後処理にあたらせたのだろうが、その戦後処理部隊が甲斐源氏の流れの平賀氏だったのだろうか?
参考:佐久町史 (これも「佐久の風はふるさとの風」さんのページ内の紹介。
このような市町村史は、郷土史家の方々の努力によって次々と発刊されているが、全国各地のそのような市町村史がが書籍として流通するだけでなく、ネット上にデータベースとして蓄積され、ネット検索できるようになれば歴史研究に相当役に立つものと思う。ネット上にこのように目次がテキストでアップロードされることにより容易に検索可能になるのだから、その効果は大きいだろう。いわゆる演繹的な研究ではなく、各郷土史の積み上げ的な帰納的な歴史像の形成が可能なのでは、などと妄想してしまう)
参考:木曽義仲の基礎知識(長野県出身の中学校社会科の先生を務めたことがある女性漫画家の方のページ)
参考:義経英雄伝というテレビゲームソフトにも「根井行親」や「楯六郎」が登場する。
木曽義仲史跡・伝説一覧
これら根井氏、楯氏の活躍、その後の平賀氏の鎌倉御家人としての隆盛(朝雅の将軍擁立騒動:牧の方の乱)など、中世の佐久の豪族が中央の政権の争奪に関与したということは、奈良・平安以来の官牧に由来する馬(つまり当時の有力な武器)の産地だったこと、またそれらの牧を管理するための組織がありを維持するだけの食料の生産力があったことを示すものなのだろう。
余談
なお、佐久のような田舎は古代以来天変地異は別としてそれほどの変化もなく推移してきたのではないかとつい想像してしまうのだが、平安・鎌倉時代だけをみても中央政界がらみの支配者の興亡はあるし、近世では、戦国時代には武田氏に蹂躙され、江戸時代にも大名の国替えが頻繁に行なわれるなど、庶民層の移転なども相当あったようだ。司馬遼太郎の「播磨灘物語」は黒田官兵衛を主人公とする歴史小説だが、黒田氏が播州で勃興するまでは、その父祖は近江からの流民で相当の苦労を重ねたという伝承を記している。中世、近世でも人々は天災・人災などでその土地で食えなくなると一家そろって他国に流浪してまで食い扶持を得ようとしたようだ。もちろん旅を職業とする遊行僧や行商人、放浪の旅芸人、職人など全国的に人々の移動交流は想像以上にあったのではなかろうか?
佐久にも有名な一遍上人が、遊行上人として何度も訪れているようだ。同行者たちがいた場合全国各地から上人のもとに参じて弟子となった人々ではないのだろうか?
鎌倉御家人の場合も、関東武士団の多くが全国各地に領地を得て、一族郎党と移住したようだ。神奈川の秦野市の毛利の庄を領地としてもらった大江広元(季光)の子孫が安芸の吉田に領地をもらって移り住んだものから後の毛利元就、長州の毛利氏が生まれたというし、またその一族は越後にも領地を持っており、そこにも毛利姓が残っているようだ。この例のように、御家人の領地はかなり全国に散らばっていたようで、同族のの領地間の交流もあったようだ。また転封によって一族郎党がそっくり移住することが多かったのだろうから、余計人々の交流範囲は広まったのではないか?
ちなみに、夏目漱石の遠祖は信州の夏目(なつめ)村(信州新町)から出たという。ここには「治武の子治貞は奥平氏に仕え、子孫は豊前中津藩の重臣となった。」とあり、夏目漱石の家系上の遠祖が、中津藩で福沢諭吉の先祖とともに働いていたということにもなるのだろう。
また福沢諭吉の先祖も辿れば信州だという(何かの小説 司馬遼太郎?で読んだ)
ISBN4-434-05248-9. 信州と福沢諭吉. 丸山 信著 四六判 158頁 定価1100円.
福沢諭吉のルーツは信州にあった。諭吉建立の福沢氏記念碑冒頭に「福沢氏ノ先祖ハ信州
福沢ノ人ナリ…」と記した根拠を探る。 ...
長野県に「福沢氏」ゆかりの福泉寺という寺院があるようだ。(長野県埴科郡坂城町網掛49 飯綱山 福泉寺)
また、
福澤家は先祖を遡れば信州の出。 奥平が中津に入封するときについてきた。という掲示板の記事もある。
福沢諭吉の祖先は・・・ (た)
2005-12-12 18:54:14
福沢諭吉は九州中津藩の下級武士の子供,と普通言われています。そのご先祖が茅野市の出身だったということをご存知ですか?
ビーナスライン(R152)のジャスコ(ビーナスライン茅野ショッピングセンター)のすぐ上を曲がって「前橋」を渡り,「福沢」地籍にはいります。すぐ右側に小さな公園がありそこに「福沢諭吉祖先発祥の地」(だったかな?文言が間違っているかもしれない)と書いた碑が建っています。その由来書きもあります。ぜひ一度ごらん下さい。d(^_^;)
「信州福沢考」についてのblogに詳しい。
著名人の「家系伝説」的な先祖探しでは、上記のような例があり、長野県と大分県中津など今でもほとんど無関係な土地の間に血縁的には面白いつながりがある例が多いのではなかろうか?
しかし、「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」の福沢諭吉にしてから、自分のルーツを求める衝動を抑えられなかったのだろうか?
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根井氏に関して秋田県のお寺の縁起に面白いエピソードがあった。信州から秋田に大勢移住したという伝承だ。
もっとも五郎満安の先祖は土着の人ではなかった。応仁の大乱がおこった元年の春三月信州から移住してきた。信濃源氏小笠原氏の一族である。由利郡五万八千石は、源頼朝の時代、由利仲八郎恒久というものが領有していた。平泉の藤原氏の族党である。子孫政春の代になって同族鳥海弥三郎の子孫に討たれ、鳥海氏は、鳥海氏はまた二人の家臣に殺され、今度は家臣同士があらそって共にほろび、貞治二年(1363)から応仁元年(1467)にいたる百余年間、由利には領主というものがなかった。住民は秋田、仙北、最上など諸地方の略奪をうけ、群盗が横行し田畑を耕す者がなく百戸二百戸あった部落も一、二に減ったり、村の名ばかり残る無人の原野に変わってしまったりした。それに目をつけたのが、鳥海山にやってきた旅の修験者である。木曽義仲の四天王の一人、根の井小弥太の子孫と称する者で、故郷の信州へ帰るとさっそく小笠原氏やその一族の大井氏と語らい、○北広野へ家従の者どもをひきつれ移住してきた。昔のこの地に、蝦夷をふせぐための由利の柵や秋田に出羽の柵を設けた時、越前、越後信濃、または上野、下野、から兵をつのって軍団をおき、あるいは諸国の民を入植させたことがあるように、戦乱時代の集団移住は、あながち珍しいことではなかったのかもしれない。
同じく秋田の土田家住宅。
土田家の祖は木曽義仲の四天王の一人、根井小弥太行親の末えいと伝えられ
by newport8865
| 2006-01-19 20:24
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