戌の満水 いぬのまんすい 1742年旧暦8月1日 新暦8月30日
2006年 01月 20日
南佐久から北佐久の小諸あたりまで、新暦の8月1日は墓参りの日である。南佐久ではこの日は特別な行事の日として、事業所なども特別に休みになるほどで、千曲川流域でも上田、長野方面の人には不思議に思われているようだ。
長い間、この習俗、行事の由来については、分からず、父は次のように想像していたほどだ。
1月1日と15日は、新年を祝う祭日・行事として元旦、小正月として重要な日付であり、お盆も本来は旧暦7月15日を中心とする日々に行なわれる仏事だった(新暦では8月15日を中心に行なわれるが)。7月は1年のちょうど後半が始まる月であり、その1日も歳神行事に関係してもともとは重要な日だったが、その風習は一般には廃れたが、佐久地方だけに墓参りとして残り、15日のお盆の先駆けになっているのではないか、と。 太陰暦的には朔(新月、ついたち)と十五夜は大きな意味を持つ日であり、沖縄では今でも毎月の朔と望のときに巫女による行事があるという。
参考:市川よみうり 年中行事の連載記事
また、8月1日はいわゆる八朔の日である。
しかし、この8月1日の墓参りが、先に紹介した「千曲塾」の小旅行をしながらの講座の第7回の記録により、1742年 壬戌(みずのえいぬ)の年の旧暦8月1日の未曾有の大洪水による被害者を慰霊する行事に恐らく由来していることが分かった。後で記すように、千曲川流域のみならず、近畿から東北地方まで広範囲にわたる台風による大洪水で各地に多くの記録が残っているのだが、この慰霊祭が佐久地方に200年以上も続いているというのは、注目に値する。(井出正一氏の記事参照)
これは井出孫六氏の戌の満水についての講演記録。
また、小諸城の重文三ノ門もこの洪水で流出し、その後再建されたものだという。千曲川からみるとあのような高台にある建物が流出したということは、浅間山から流れ出す小河川の洪水もすさまじいものだったのだろう。
◆18世紀には天候が不安定だったことは、同じ千曲塾でも言及されている。
◆ 「日暮硯」で有名な恩田木工田民親(松代藩家老)25歳のときに、松代城下がこの戌の満水に襲われた。この戌の満水が千曲川・信濃川全流域に大変な水害をもたらしたことがよく分かる。(ちなみに木工とは もく と 読み、木工の頭 もくのかみ :宮中の官職名 の略らしい) これにより、松代藩が幕府から多額の借金をせざるを得なくなり、その後の藩政が疲弊したようだ。
◆歴史データベース on the Webを検索すると、この水害が近畿・中部・関東を襲い、googleなどで検索してみると東北地方まで被害にあっていることが分かる。現在毎年襲来する台風の進路からいって
も近畿以東を巨大台風が襲ったことが分かるし、洪水の記録が新暦の8/28から9/6まで続いていることから、新暦8/30の台風に続いてまた台風が続けてきたのか、秋雨前線の活動が活発化したのかどちらかだろうか?
なお、時の将軍は、八代将軍徳川吉宗で、公事方御定書が制定された年にあたる。
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付記 2015/9/15
Wikipedia 戌の満水 の元記事2006/9/1は、このブログ記事を元に私が投稿したものです。
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参考:Wikipedia日本語版へのリンクの貼り方 (文字化けを避ける方法)
長い間、この習俗、行事の由来については、分からず、父は次のように想像していたほどだ。
1月1日と15日は、新年を祝う祭日・行事として元旦、小正月として重要な日付であり、お盆も本来は旧暦7月15日を中心とする日々に行なわれる仏事だった(新暦では8月15日を中心に行なわれるが)。7月は1年のちょうど後半が始まる月であり、その1日も歳神行事に関係してもともとは重要な日だったが、その風習は一般には廃れたが、佐久地方だけに墓参りとして残り、15日のお盆の先駆けになっているのではないか、と。 太陰暦的には朔(新月、ついたち)と十五夜は大きな意味を持つ日であり、沖縄では今でも毎月の朔と望のときに巫女による行事があるという。
参考:市川よみうり 年中行事の連載記事
また、8月1日はいわゆる八朔の日である。
はっさく【八朔】という年中行事も八朔の墓参りの由来の一つということも考えられる。
(「朔」はついたちの意)
1 陰暦八月一日。また、この日の行事。田実(たのむ)の祝い(節供)のこと。農家で、その年に取り入れした新しい稲などを、主家や知人などに贈って祝った。のち、この風習が町家でも流行し、この日に上下貴賤それぞれ贈り物をし、祝賀と親和とを表すようになった。また、武家では、鎌倉時代以降武士の祝日の一つとなっていたが、天正一八年のこの日に、徳川家康が初めて江戸城にはいったところから、大名・小名や直参の旗本などが白帷子(しろかたびら)を着て登城し、将軍家へ祝辞を申し述べる行事が行われた。《季・秋》
2 江戸の遊里、吉原で行われた紋日(もんび)の一つ。陰暦八月一日。遊女たちが、そろって白無垢(しろむく)の小袖を着て、客席へ出たり、おいらん道中を行ったりした。元禄年間、遊女高橋が白無垢のまま病床から客席に出たところから始まったという。
Kokugo Dai Jiten Dictionary. Shinsou-ban (Revised edition) ゥ Shogakukan 1988/国語大辞典(新装版)ゥ小学館 1988
しかし、この8月1日の墓参りが、先に紹介した「千曲塾」の小旅行をしながらの講座の第7回の記録により、1742年 壬戌(みずのえいぬ)の年の旧暦8月1日の未曾有の大洪水による被害者を慰霊する行事に恐らく由来していることが分かった。後で記すように、千曲川流域のみならず、近畿から東北地方まで広範囲にわたる台風による大洪水で各地に多くの記録が残っているのだが、この慰霊祭が佐久地方に200年以上も続いているというのは、注目に値する。(井出正一氏の記事参照)
これは井出孫六氏の戌の満水についての講演記録。
また、小諸城の重文三ノ門もこの洪水で流出し、その後再建されたものだという。千曲川からみるとあのような高台にある建物が流出したということは、浅間山から流れ出す小河川の洪水もすさまじいものだったのだろう。
◆18世紀には天候が不安定だったことは、同じ千曲塾でも言及されている。
洪水の発生頻度は18世紀に高い。寛保2年(1742)の「戌の満水」から、19世紀の終わりまでが多かった。どういうことかというと、天明・天保に始まって、日本は小氷河期になります。それで気候が非常に不安定になり、それとともに洪水が頻発するようになった。
20世紀に入りますと、気候は安定してくる。20世紀は気候的には非常に恵まれた時です。今後はどうなるか。予測は難しいが雨が降る量は増えて来ると思います。世界中に降る雨の量は同じですが、ぶれが大きくなる。いま地球上も暖かいところもありますが、寒い所もあります。そういうことで地球の気候が不安定な時期に入ったといえるかと思います。温暖化を防ぐために、二酸化炭素の排出規制が大きな問題になっています。
◆ 「日暮硯」で有名な恩田木工田民親(松代藩家老)25歳のときに、松代城下がこの戌の満水に襲われた。この戌の満水が千曲川・信濃川全流域に大変な水害をもたらしたことがよく分かる。(ちなみに木工とは もく と 読み、木工の頭 もくのかみ :宮中の官職名 の略らしい) これにより、松代藩が幕府から多額の借金をせざるを得なくなり、その後の藩政が疲弊したようだ。
◆歴史データベース on the Webを検索すると、この水害が近畿・中部・関東を襲い、googleなどで検索してみると東北地方まで被害にあっていることが分かる。現在毎年襲来する台風の進路からいって
も近畿以東を巨大台風が襲ったことが分かるし、洪水の記録が新暦の8/28から9/6まで続いていることから、新暦8/30の台風に続いてまた台風が続けてきたのか、秋雨前線の活動が活発化したのかどちらかだろうか?
1742/08/28,寛保2/07/28
中部・近畿で、大風雨がやまず、諸河川が氾濫し大洪水となる。
1742/08/30,寛保2/08/01
台風が江戸を襲い、大名屋敷に至るまで水浸しにする。
1742/09/01,寛保2/08/03
大風雨により利根川・荒川が大洪水になり、関八州に大被害を及ぼし、田畑の水没は80万石に及ぶ。
1742/09/06,寛保2/08/08
関東・江戸が洪水となる。
1742/09/21,寛保2/08/23
幕府が勘定方に水害地の巡視を命じる。
なお、時の将軍は、八代将軍徳川吉宗で、公事方御定書が制定された年にあたる。
くじかたおさだめがき【公事方御定書】 江戸幕府の法典。二巻。寛保二年成立。八代将軍徳川吉宗の命により、老中松平乗邑の下で、寺社・町・勘定三奉行が現行の法令、判例を整理して編集。上巻は司法・警察関係の法規八一条、下巻は御定書百箇条と呼ばれ、訴訟・裁判の手続き、刑罰規程等一〇三条を収める。
Kokugo Dai Jiten Dictionary. Shinsou-ban (Revised edition) ゥ Shogakukan 1988/国語大辞典(新装版)ゥ小学館 1988
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付記 2015/9/15
Wikipedia 戌の満水 の元記事2006/9/1は、このブログ記事を元に私が投稿したものです。
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参考:Wikipedia日本語版へのリンクの貼り方 (文字化けを避ける方法)
by newport8865
| 2006-01-20 20:26
| 行事 風習