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中沢新一「精霊の王」を読んでみた 2006年 01月 25日
「新海神社は延喜式内社ではなかったが・・・」という記事を先日書いたが、その中で ミシャグチ、ミサグチ神について宗教学者の中沢新一の著書「精霊の王」が扱っているのをネットで知ったことを書いた。
割と最近の出版なので何軒か書店を探したところようやく購入できたので読んでみた。装丁として中表紙にフランス語の "roi (王) du 何とかかんとか" というページをいれているのは、学者ながらペダンティックなことをするものだと、下世話なことが気になった。 非常に難解な本なので、理解がいきとどかないところが多いのだが、印象に残ったことを順不同であげていくと、能(猿楽)の金春禅竹(こんぱるぜんちく)の昭和30年代に発見された遺文に書かれている「翁は宿神である」という記述から多くのことがインスパイアされているようだ。 ミシャグチ、ミサグチ、「佐久」に関しては、「佐久」という文字がミシャグチ神の当て字ということは柳田国男の研究として出てきたが、地名「佐久」については直接的にはまったく触れられてはいなかった。 柳田国男(長野の飯田出身の柳田家の養子となり飯田に縁がある)、藤森栄一、今井野菊という諏訪のミシャグチ神の研究の系譜があるようだ。諏訪湖周辺の、ミシャグチ信仰の跡に奉納されていた扇と「胎衣」(えな)からの連想が興味深かった。 参考:文化財人名事典 柳田国男 筆名は赤松国祐・松男・川村杳樹・久米長目、俳号は柳叟(リュウソウ)、旧姓は松岡。長野県飯田(イイダ)出身の大審院判事柳田直平の養子となる。 飯田市美術館 柳田國男館 : 以前、飯田出身の菱田春草の日本画が見られるかと飯田市美術館に訪れたことがあった。春草の作品は常設展示されていなかったが、この記念館や日夏耿之介記念館を見る事ができて興味深かった。 中世史に新たな光をあてたとされる歴史学者の網野善彦が義理の叔父(叔母の夫)だったというが、その影響も深いようだ。 (不勉強で週刊誌や新聞の書評などで網野善彦の名前を知る程度なのだが、Wikipedia などで網野善彦の著書リストを見ると、自分が1970年代の高校生のとき、士農工商と言うが、「漁民」はどの身分に入っていたのかを日本史の先生に質問した際に、明確な答えをもらえなかったのだが、この網野氏の著書が少しでも出ていたならと思う。その多くが1990年代の出版だからやむをえない。そこから思えば自分の関心の持ち方も捨てたものではなかったのかも知れない。) これなどは、隆慶一郎の傀儡子の一族や、東日本・西日本の差異(東海道では浜名湖付近が方言・風俗習慣の境らしい)、またこの「精霊の王」で言及されている東西日本のミシャグチ信仰の差異につながるものだろう。 岩波セミナーブックス サ行+カ行の単語が、日本語の中で特別の意味を持ち、その中に「サク」も入る。サカ、シュクが特別の意味を持つという。渡来人秦氏の家系伝説、芸能史、西日本と東日本では「ミシャグチ信仰」の様相が大きく異なっていることなど。坂、夙という言葉。(夙谷といえば、白土三平の「カムイ伝」に出てくる地名。また、最近読んだ隆慶一郎「捨て童子 松平忠輝」の傀儡子、山窩の民のことも思い浮かんだ。) この論考のオリジナルは雑誌「群像」(講談社)に発表された一般向けの記事であるためか実証性や精緻な推論などを端折っているようで、どうしてそのように推論されるのか、いわゆる「納得」「理解」しがたい部分もあり、また「クラインの壺」の比喩など位相幾何学についての知識が必要だと思われる難解な部分もあり、論考全体としては五里夢中の理解しかできていない。古代国家の成立、天皇制と差別の問題などにも言及されているが、まだまだ理解が及ばない。(この書籍の背景に多くの引用文献、その他著者の自著があり、それらが前提になっているのだろうし。) ミシャグチ神のような古代人の精神活動を、考古学、民俗学、宗教学、神話学、歴史学的な手がかりを元に現代によみがえらそうとする試みというか方向性くらいしか理解は及ばないが、自分にとってもなかなか面白いものだと思う。 最近、このblogのように地方史や民俗学的なことに再び関心が戻ってきて、そういえばと考えると、高校生のころ柳田国男の「遠野物語」などに熱中したことを思い出す。もともと民俗学は趣味的に興味があった。また、学生時代に教員免許を取得する際に、中学校で教育実習を行い、社会科の研修授業で縄文時代を扱ったのだが、その際、縄文時代の人々の暮らしを知るよすがとして、石器、土器、住居跡のほかに、ごみ捨て場である貝塚、トイレの跡に残された糞石、お墓、土偶など精神生活の窺がわれるものなどがあると、半可通のわかったような授業をしたことがあったのだが、概説書で得た知識を他人に教えた経験でもそれなりに脳裡に焼きついている。 「精霊の王」の口絵に、長野県諏訪郡原村や北巨摩郡須玉町(現、北杜市。地名破壊もひどいものだ。)出土の人面(嬰児の頭部だという)のついた瓜二つの縄文土器が出ているが、その人面に似たものが、父が表面採取で採集した縄文土器の中にあるのだ。この土器は、蛙(女性器を象徴するとされる?)から胎児が顔を出していることを示すのだというのだが・・・。(文様の象徴性だが、人の嬰児はそのまま写実的に描き、生殖器を蛙文様で象徴させるという差異はどうして生じたものだろう?むしろそのような作為的な差異がない方が自然だと思うのだが。要するに蛙は象徴ではないのではないか?) 縄文土器の図像を検索していたら、「ブナ林と古代史」という面白いページがあった。 父の蔵書にも「日本人はどこからきたのか」という主題の書籍や、梅原猛全集なども実家には鎮座している。結構関心があるようだ。 私などは生来のグズで、ズクなしで、フィールドワークのような地道な作業にはほとんど興味もなく経験もない。博物館に整理・復元された展示品や解読され、印刷された文書を読む程度のまったくのディレッタントではあるが、自分のはるかかなたの祖先たちの痕跡をたどるというのはなぜか非常に魅力的ではある。 ネットで見つけた「精霊の王」関係の書評 (書評自体非常に難解なのだが)。 「人文レジ前」 情報考学 不連続な読書日記 中沢真一「対称性人類学」について(松岡正剛の千夜千冊) 世阿弥と金春禅竹――『精霊の王』を読んで―― 松岡心平 また、googleでヒットした新・網上戯論は今はリンクが切れているが、キャッシュで読むと興味深い議論が書かれている。実証性の点だ。 ウソの論拠 悪党 - 2004/12/24(Fri) 17:38 No.3242 引用 http://www.furugosho.com/accueil.htm 内の http://www.furugosho.com/cgi-bin/bbs/yybbs.cgi?page=15 のようなやり取りが見つかった。
タイトル : 新聞小説 宿神 (夢枕獏)始まる
2006年12月21日に、沖縄を舞台にした『メタボラ』(桐野夏生)が途中で放り出すような形で突然終結し、いきなりタイトルの小説が開始された。 これは、このblog でも取り上げた中沢新一「精霊の王」を読んでみたの冒頭をそのまま借りたような始まりになっている。 序章からして『精霊の王』である。 平安朝? 少年貴族が蹴鞠の練習をする場面から始まる。 どのような展開をするのか? この作者の場合、猟奇的な時代ものだろうということは予想がつくが。 ...more |


