新海(新開)三社神社 と 新開氏の関係は?
2006年 01月 29日
しんかい しんがい などで GOOGLE検索を行ったところ、「新開」氏という武将の家系が目に留まった。
武家家伝 新開氏
ここに 渡来系の秦氏 および 「佐久」 が登場することが注目される。
そして、その裔は四国は阿波の国にいたるという。
◆佐久新海神社の別名もあるという 先宮についても 別のサイトがあった。
◆和田村にも 新海神社があるという。
仮に、新海三社神社がその新開という別名から、上記武将の新開氏に関係があるとすると(由来にはそのような記述はないという記事があったが)、その家系図からは傍系かどうか分からないが、渡来系の秦氏と関係があるようである。
前にも触れた「日本の朝鮮文化」では平安期の関東武士団そのものが、これら渡来系開拓民の裔という説もあるそうなので、農耕開拓を記念する神社や馬匹生産地と、渡来系との関係は非常に深いものと想像される。
新海三社神社が、後世、「佐久一之宮」とされるほどの規模の大きい神社であるにも関わらず、延喜式神名帳(えんぎしき じんみょうちょう)に掲載されていないことは、同じく佐久の名社である、浅科の八幡神社(高良社)や佐久市の駒形神社が記載されていない一因ではないかと思われる背景、つまり渡来人系ということと関係があるのではなかろうか?
馬といえば、やはり先日記した楯六郎の佐久町館付近の騎馬牧場(私有牧場)が頭に浮かぶ。
新海三社神社が室町時代に現在重要文化財に登録されるほどの三重塔や社殿を建築できたのには、バックに相当の財力の存在が当然想像される。これが大井の庄の大井氏だったのか、伴野の庄の伴野氏だったのか?
参考:
◆新開大神宮 熊本県
武家家伝 新開氏
新開氏の祖先は、天武・持統朝以後、辺地の開発のために移住させられた新羅系渡来氏族の秦氏だという。秦氏は農・工技術集団として信濃に入り、佐久・更級・東筑摩地方に広がり、地方豪族として成長したものと考えられている。そして、その一派が武蔵国の新戒(榛沢郷大寄郷)に移住し開発領主になったのは、平安末期のころと思われる。
ここに 渡来系の秦氏 および 「佐久」 が登場することが注目される。
そして、その裔は四国は阿波の国にいたるという。
◆佐久新海神社の別名もあるという 先宮についても 別のサイトがあった。
◆和田村にも 新海神社があるという。
仮に、新海三社神社がその新開という別名から、上記武将の新開氏に関係があるとすると(由来にはそのような記述はないという記事があったが)、その家系図からは傍系かどうか分からないが、渡来系の秦氏と関係があるようである。
前にも触れた「日本の朝鮮文化」では平安期の関東武士団そのものが、これら渡来系開拓民の裔という説もあるそうなので、農耕開拓を記念する神社や馬匹生産地と、渡来系との関係は非常に深いものと想像される。
新海三社神社が、後世、「佐久一之宮」とされるほどの規模の大きい神社であるにも関わらず、延喜式神名帳(えんぎしき じんみょうちょう)に掲載されていないことは、同じく佐久の名社である、浅科の八幡神社(高良社)や佐久市の駒形神社が記載されていない一因ではないかと思われる背景、つまり渡来人系ということと関係があるのではなかろうか?
伊勢神宮を頂点として官幣社(名神大社、大社、小社)、国幣社(大社、小社)と神々を序列体系化しています。選定に当たっては、おそらく地方氏族の猛烈な運動があったのでしょうが、選定には大和朝廷の発展の歴史段階にも関わっている地域の神社が優先されていると見ることができます。
また、讃岐の金比羅神宮、備前の吉備津彦神社、備後の吉備津神社、紀伊の熊野那智大社などの様に、当時明らかに存在していても式内社の選に漏れている神社が多くあります。式内社は当時から存在しており、朝廷からも重要視はされていた事は間違いありませんが、それ以外の神社でも由緒深い神社が多くありました。それを式外社と言います。
馬といえば、やはり先日記した楯六郎の佐久町館付近の騎馬牧場(私有牧場)が頭に浮かぶ。
新海三社神社が室町時代に現在重要文化財に登録されるほどの三重塔や社殿を建築できたのには、バックに相当の財力の存在が当然想像される。これが大井の庄の大井氏だったのか、伴野の庄の伴野氏だったのか?
参考:
◆新開大神宮 熊本県
by newport8865
| 2006-01-29 11:36
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