ふるさと佐久


by newport8865
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縄文人の暦は?

昨日が旧暦(太陰暦)の正月ということで、暦のことを何気なく考えていたところ「縄文人が暦をもっていたとすると月か太陽のどちらを基準としたのだろうか」という素朴な疑問が生まれた。

先日、土器のカエル模様について、「太陰暦的な」という言葉が遣われていたことがきっかけになっている。

中国から伝わった暦は、月の満ち欠けをもとにした太陰暦なのだが、それ以前はどうだったのだろうか?

古代人の暦と言えば、ストーンヘンジだとか、ピラミッドだとかの巨石遺跡が、春(秋)分や夏至、冬至に関係あるような説があり、縄文時代のストーン・サークルもそれに類するのではないかといわれている。

弥生人(縄文時代後の渡来人)の信仰が国家的に整備されたのちの、この国の神話体系では、天照大神が最高神となっているが、これは季節に大きく依存する農業が主たる生活手段になっていたからかと想像される。(しかし、北欧の太陽信仰の冬至祭りが、クリスマスの起源の一つとされるが、太陽信仰の起源と農耕は必ずしも不即不離なのだろうか?北欧は狩猟が主たる生活手段ではなかったのか?)

狩猟採集を主たる生活手段としていた縄文人にとっては、細かい暦は不要だったのかも知れないが、北欧の例を見れば、必ずしも太陰暦的か太陽暦的かは容易には分からない。

諏訪の御柱祭りは、申の年と寅の年(6年ごと)の春に行なわれることになっているが、古代信仰を現代まで伝えるといわれるこの祭礼は暦は関係していないのだろうか?

「信長の棺」では朝廷と信長の緊張は、中国からもたらされた暦と、南蛮人のもたらした暦の衝突に由来するという説が述べられていた。非常に興味深い。(江戸時代では、徳川将軍家の天文方が暦を司ることになったようだが)

佐久町の縄文の大石棒などは、夏至、冬至の南中時の影を測るのには最適だったように思われる。(ところで、この大石棒、例の「戌の満水」のときにはどうだったのであろうか?そのような大洪水は歴史時代になっても数多く発生しているようで、現在の位置とは別の場所にあったとも考えられるのではなかろうか。)

北沢の大石棒 約4500年前(縄文中期)に佐久西小学校裏遺跡に住んだ人々が、豊かな実りと動物や人間の誕生とを重ねあわせ、集落の繁栄を願う信仰のシンボルとして湧水のほとりに立てたものと思われます。地中より発見され、後日千曲川の支流、北沢川沿いの河畔に立てられました。佐久石とも呼ばれる志賀溶結凝灰岩で作られており、高さ2.23m、直径25cmの大きさは「日本一」です。


佐久西小学校付近の地図

縄文人と暦の関係で、「縄文学研究室」という大学院生の方が開設しているページがヒットした。
その中に 「太陽と山と縄文人」という研究があり、ここにちょうど環状列石(ストーン・サークル)について書かれている。
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by newport8865 | 2006-01-30 20:55 | 行事 風習