ふるさと佐久


by newport8865
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カテゴリ:歴史( 8 )

以前このブログのテーマ集をまとめたことがあった。

その中で、
(4)川上村 保元の乱の伝説 重仁親王(崇徳天皇の皇子。近衛天皇、後白河天皇の甥で、京都の仁和寺で亡くなったとされるが、御所平の大海道の山裾の神社になぜか重仁親王が祀られているという伝承があるらしい)
  御陵(みはか)山、御所平などの地名 http://www.kawakami.ne.jp/moriben/offmeetting2001/offmeetting.pdf#search='重仁親王 伝説 川上村'

川上村御所平横尾遺跡調査報告内の伝説のページ(pdf) http://rar.nagano.nii.ac.jp/file/750/20110516103753/0847%E6%A8%AA%E5%B0%BE.pdf

というテーマを書いておいた。

最近のこのブログの閲覧レポートを見たところ、「重仁親王と川上村」という検索語で検索されていたことが分かった。

そこで、改めて自分で検索をしてみたところ、なんときちんとまとめられた論文がネットで読むことができるのを発見した。たどっていってみると、学術情報発信システムSUCRAに掲載された論文であることが分かった。

直リンクは、以下のURLになる。

http://sucra.saitama-u.ac.jp/modules/xoonips/detail.php?id=BKSL060012

タイトル 悲運の皇子 : 重仁親王の流離
著者 雨海, 博洋 (Amagai, Hiroyoshi)
立正女子大学短期大学部 (Rissho Women's Junior College)

日付
出版年: 1970
作成日: 2012-11-07

とのことだ。

研究者の方の論文だけあり、手際よくまとめられていてとても参考になる。

ネットでの情報共有の利点を感じた。
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by newport8865 | 2015-09-27 14:49 | 歴史
テレビドラマ「一路」を見ていたら、岩村田藩と内藤家の殿様、岩村田の商人が登場したので驚いた。

実家の近所でもあり、高校の同級生の実家が商店街にあったり、中学校時代の行きつけの本屋があったり、先日母が入院した病院があったり、佐久ホテルで友人の婚礼に出席したり、龍雲寺など、少しのゆかりがある。その近所にある鼻面稲荷の初午に連れて行ってもらったこともあった。現在は、新幹線佐久平駅、佐久インターチェンジなどで、岩村田の商店街も隔世の感があるが、古くからの製菓店和泉屋菓子店の半熟チーズケーキや、昔よく買いに行った母の知人の佐久鯉の専門店など親しみがある。

(なお、南佐久には、岩村田の内藤家とは異なる甲州系の内藤家があるそうだ。)

岩村田藩のことは、実家に一番近い場所にあるのについ忘れがちで、このブログでも少し触れたことがあるのに、ほとんど忘れていた。ドラマでは、岩村田藩の陣屋(城郭)に主人公の一路が殿の御供として伺候する場面が描かれるが、さて陣屋はどこだったかと調べてみたところ、岩村田小学校がその跡地に建てられ、内藤家を祀る神社がその傍らに位置しているらしい。一路の殿の宿泊所だったはずの龍雲寺からは南に歩いて1km強ある。原作も読んでみたが、原作の設定では、陣屋は龍雲寺のすぐ南に位置するという描写があり、実際の位置関係とは大幅に食い違っているようだ。



さて、岩村田藩のことをネットで検索していたら、
ぱんだ城というサイトの中の 信濃 岩村田 というページを見つけた。

非常に的確な内容が書かれていてうれしかった。「寒竹」は、数年前、弟が会社の知人からいただいたということで、年末年始の帰省のおりに飲ませてもらったが、アルコールや糖分の嫌味がまったくなく、甘口だがくどくなく、しみじみ醇な酒だった。

そんなわけで、特にこのページの以下の記述には我が意を得たりで、感激した。本当によくわかっていらっしゃる。飲んべというわけではないが、佐久の酒についても別項で少し書いてみたい。

日本酒も、ものすごくうまい…。パンダの人には特におすすめ。
岩村田商店街の中に、戸塚酒造店さんという小~さい酒蔵があって、『寒竹』という銘柄を作ってらっしゃる。
宣伝費よりも材料費、量より質、というお考えだから、全く知られていないが、おすすめ。フルーティで甘口なのにサラサラしててスッキリで、女性にもおすすめ。

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by newport8865 | 2015-09-14 21:08 | 歴史
以前、「長土呂 西近津遺跡群 (長野県佐久市) 2007年 11月 06日」で書いた遺跡のようだ。



佐久で06年発見硯の破片は奈良時代の「獣脚風字硯」 (読売新聞)

「風字」に「獣脚」 国内初の出土
佐久市で発見された国内初の「獣脚風字硯」(千曲市屋代の県立歴史館で)

 佐久市長土呂地区の周防畑遺跡群で見つかった硯(すずり)の破片が、奈良時代の「獣脚風字硯(じゅうきゃくふうじけん)」=写真=だと分かった。県埋蔵文化財センターが17日、発表した。獅子の脚の飾り(獣脚)がついた硯は他県でも出土例があるが、「風」の字に似た形状の「風字硯」に獣脚がついたものの出土は、初めてという。

 発見されたのは、須恵器で、長さ11センチ、幅7センチ、高さ3・9センチの破片。直径2・9センチの脚がつき、5筋の刻みで指を表現している。破片は2006年7月に出土しており、昨年の分類作業で獣脚風字硯と判明した。同時に出土した土器などから、8世紀後半(奈良時代)のものと推定。中国・唐の時代に、香炉などに獣脚を付けることが流行し、日本にも伝わったという。

 当時、佐久地域には佐久郡という行政区があったが、役所の場所は特定できていない。調査に携わった国学院大の吉田恵二(えいじ)教授(65)(考古学)は「形も珍しいが、当時、役人が使っていた硯の出土に意義がある」と話している。

 同遺跡群は、JR佐久平駅西側に広がる弥生~平安時代の集落遺跡。同センターは石こうで全形を復元し、5月13日まで県立歴史館(千曲市屋代)で開かれている企画展で公開している。
(2012年3月18日 読売新聞)


佐久で8世紀のすずり発掘(中日新聞 2012/3/18)
県埋蔵文化財センター(長野市)は17日、佐久、長野両市の奈良時代の遺跡から、8世紀後半に作られ、当時の役人が使っていたとみられるすずりがそれぞれ1点出土したと発表した。遺跡所在地の近くに役所が置かれ、地域の中心地だったことを示す貴重な資料としている。

 佐久市長土呂の「佐久市周防畑遺跡群」から、2006年7月に出土したすずりは「獣脚風字硯(じゅうきゃくふうじけん)」と呼ばれ、陶製で形が漢字の「風」に似ている。出土時は底の部分に獅子をかたどった脚が1本付いていた。欠けていた部分を復元し、長さ17・5センチ、幅17センチ。

 風字硯は過去にも出土例があるが、脚の形状が獅子をかたどったものは国内で初めて。県埋蔵文化財センターの大竹憲昭調査部長は「当時の佐久郡の役人が、地元の窯に発注して作ったのではないか。脚に役人の創意工夫が見える」と話した。

 長野市桐原の「浅川扇状地遺跡群」から昨年4月に出土したすずりは、直径約16センチの円形で筆を立てるための穴が空いている。竪穴住居跡から見つかった。

 出土品は、5月13日まで千曲市の県立歴史館で開かれる企画展「長野県の遺跡発掘2012」(中日新聞社後援)で展示している。 (酒井博章)

 吉田恵二国学院大文学部教授(考古学)の話 獣脚風字硯は非常に変わった形をしており、これまで見たことがない。古代のすずりは主に役人が行政文書を書くときに使う道具で、まだ特定できていない当時の役所跡を示す貴重な手がかりとなる。



獣脚風字硯:佐久・周防畑遺跡群で発見 奈良時代のすずり 国内初、陶製の破片 /長野 (毎日新聞 2012年3月18日 地方版) 

 県埋蔵文化財センターは17日、佐久市の周防畑(すぼうばた)遺跡群から奈良時代(8世紀後半)の獣の足をかたどった脚付きのすずり「獣脚風字硯(じゅうきゃくふうじけん)」の一部が出土したと発表した。同型のすずりが発見されたのは国内で初めて。

 発見されたのは長さ11センチ、幅7センチ、高さ3・9センチの陶製の獣脚部分の破片。復元すると長さ17・5センチ、幅17センチ、高さ3・9センチのすずりになるという。

 国内では8世紀後半~9世紀前半にはすずりの形が「風」の字に似ている「風字硯」が一般的。一方、獣脚の付いたすずりは7世紀までに見られ、8世紀以降には出土していないため、同センターの大竹憲昭調査部長は「他に類を見ない形で、佐久のオリジナルかもしれない」と話している。同遺跡群は中部横断自動車道の建設に伴い、06~09年に調査した。

 獣脚風字硯を含む県内の遺跡で発掘された旧石器時代~鎌倉時代の遺物は、5月13日まで、県立歴史館で開催中の「長野県の遺跡発掘2012」で一般公開されている。【福富智】

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by newport8865 | 2012-03-18 23:00 | 歴史
2008/2/23(土)朝日新聞 3版 夕刊 第10面にの文化欄(culture & entertainment)のテークオフという記事で紹介されていた。「旧石器研究 易しく伝える」。

堤隆(つつみたかし)さんという御代田町職員の方で、御代田町町営の浅間縄文ミュージアムの学芸員だからなるほど公務員なんだと思った。ちょうど私と同世代の人だが、このブログでも紹介したことのある野辺山の矢出川遺跡などの周辺で見つかっている後期旧石器時代末、今から約1万数千年前の「細石刃」(さいせきじん)が専門の研究分野なのだという。考古少年だった中学生の頃から野辺山に出かけていたというので、年季が入っている。地方の研究者がこのような賞を受賞することは稀なことらしく、本人の談話でも「励みになる」と書かれていた。まずは素直に受賞を祝福したい。

日本列島に最初に住み着いた人々、寒冷期の時代、とくれば、ナウマンゾウを想像する。野尻湖のナウマンゾウは約4万年前からいたというし、野尻湖人もその頃から活動していたらしい。それよりも少し時代は下るのだが、先日も訪れたあの野辺山高原で(地形は変わってはいるだろうが)、マイクロな石器を木の棒に埋め込むという手間のかかるやり方をしていた人々がいたらしいのは、非常に不思議な感じだ。(wikipedia

野尻湖人の4万年前という時代は、旧人とされるネアンデルタール人の滅亡が3万5千年前とされるため、微妙なところだが、「野辺山人」は完全に新人(ホモ・サピエンス)であり、現代日本人の直接の祖先の系統の1つなのだろうと思うと感慨深いものがある。

なお、この野辺山近辺のレタス畑は、私の親戚の畑も多く、学生時代には農繁期の手伝いに行ったこともある。比較的山裾の新規の開拓地の方では、森林との境界部分に、石器と見まがうような適当な大きさの形のいい石が多量にあったのを覚えている。それこそ沢山あった。そのことを父に話し、確かに山を削った斜面にはそのような石が以前から沢山あるので、それが人為的な石器なのか自然石なのか見分けは難しいだろうと話したことを思い出す。
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by newport8865 | 2008-02-24 10:04 | 歴史
Wikipediaで、律令制頃の信濃国の国府に関係して議論になっている。初めは、その議論の当事者ではなかったのだが、平安時代の一次史料(資料)には筑摩郡としか出ていないことを根拠にして、それ以前に小県郡にあったと推定している学説(長野県の歴史研究では通説だろう)をwikipedia記事から抹消しようとする編集者がいるので、その人の編集を取り消しているうちに遣り合う破目になっている。

Wikipediaは独自研究を認めないというガイドラインがある。一次史料に書かれている事柄はその一次史料が成立した時点の情報としては相当信憑性が高いことは認めたい。しかし、一次史料成立前の事柄について何も書かれてはいない場合、「一次史料のみに頼り、一次史料に書かれていないことは全て間違っている」(つまり小県国府があっただろうという推定が間違いだということ)という論理展開自体が一つの学説で、それが公開された論文や書籍に掲載されていなければWikipediaでは独自研究に過ぎず、そのような独自研究は自分のサイトで展開するのは勝手だがWikipediaに書かれていた学説で、自分の独自研究に合わない部分を全て削除することはガイドラインを逸脱するものだという趣旨を繰り返し説明(ネットでは論争相手のリテラシーが低い場合、またはわざと韜晦している場合にはもどかしい)してようやく編集合戦が終息している。

全国的に見ても、国府(都市)、国衙(役所)の遺跡が発掘されたり、特定されたりしたケースはそれほど多くないらしく、上田の国分寺跡のように、近くに国分寺を伝える寺が存続し、礎石が立派に残っているのは珍しいようだ。相模の国などは、国府(小田原に国府津という地名はあるが)は位置も明確ではないようだ。

さて、国府について調べていて、令制国の下にあった評(こおり)、郡である佐久郡の記事を少し書き加えようと思い、郡衙についてネットで調べたところ、佐久市の長土呂の西近津遺跡群のニュースが目に入った。佐久地方を南北に縦貫して山梨県に入り、静岡県に達する自動車道の工事現場からいくつもの遺跡が出土しているのだがそのうちの一つで、弥生時代の竪穴式建物としては国内最大級ものが見つかったり、平安時代の銅印が発見されたりしたという。このあたりが、佐久郡の郡衙推定地に近い場所とのことだ。

地図で確認すると、発掘現場は、我が家が父の知り合いの家から家庭菜園用に借りていたことのあった場所に近く、父はその畑周辺から土器の破片や、瓦の破片なども表面採取で結構採集してきて、現在も保管している。今回のような大工事がなければ、古代史研究者が郡衙推定地として予測していても調査は適わなかった場所なので、その意味では開発もむげに否定できないものかも知れない。

現代では、濁川が田切地形の崖下を流れ、水利のあまりよくない場所で、ほとんど畑として使われており、集落はほとんどない場所だが、広々とした見晴らしのよいところでもある。また、近くの駅名・地名に 中佐都(なかさと)というものがあり、この地名がいつから成立したものかは分からないが、郡衙があったと推定され現に大集落が発掘された場所の近くにあるので、意味深な名前に見えてくるから不思議だ。

なお、佐久の神社については、新海三社神社が一の宮として古くから信仰されているが、奈良・平安時代の郡衙が長土呂に推定されていることから考えると、長土呂にある近津神社(新海三社神社関連の記事で少し言及している)も郡衙推定地に近い比較的規模の大きい神社として注目されるかも知れない(近津の昔の地名は千鹿頭=建御名方の子の名前だったという)。

日本語とアイヌ語関係サイトに近津・メモという興味深い記事があった。

その後、11/7の信濃毎日新聞に、西近津遺跡群からの出土物として、楷書の「郡」が書かれた土器が発見されたというニュースが出ていたので、wikipediaの「佐久郡」に追記した。これにより、西近津遺跡群の周辺が一層郡衙の跡の可能性が強まってきたようだ。

この11/11(日)には現地見学会が開かれるという。

横浜市では都筑郡衙が特定され、横浜市の歴史博物館(その近辺に大規模な弥生遺跡である大塚・歳勝土遺跡がある)でその復元模型が紹介されている。

都筑郡衙跡のように、西近津遺跡群も高速道路の工事とともにまた地中に埋められてしまうのだろう。開発がなければ発掘による発見もなかったのだろうが、何か矛盾を感じる。
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by newport8865 | 2007-11-06 20:25 | 歴史

夏目漱石 と 長野県 

漱石展を見に行っていろいろ刺激を受けたので、漱石についての関心が再燃している。

漱石の妻 鏡子の『漱石の思い出』を読んでいるが、いわゆる修善寺の大患の危篤状態から回復した後に、長野県からの講演の依頼があり、妻鏡子を伴って国鉄高崎線、信越線経由で、軽井沢(教育会の出迎えと会った)を経て長野の犀北館に宿泊し、善光寺に詣でたことが書かれていた。(信越線は、全国の鉄道の中でも比較的早く設置され明治の半ばには直江津まで開通していたようだ。碓氷峠越えは、多分アプト式だっただろう)

その後、今の上越市 高田で、修善寺の大患のときに世話になった長與病院の医師宅に招かれ、諏訪でも講演したことが書かれている(これは恐らく岩波茂雄の縁ではあるまいか)。松本にも訪れたようだ。

また、このサイト http://www001.upp.so-et.ne.jp/fukushi/soseki/nagano.html によれば、その翌年湯田中渋温泉にも来訪しているが、これも上林温泉に友人の中村満鉄総裁と出かけたことが書かれていた。

なお、長野での講演会について、日垣隆が http://homepage2.nifty.com/higakitakashi/kouryou/kouryou04.html
というエッセイを書いている。妻鏡子の同伴の理由と講演会での謝礼の件がどうやら新発見のようだ。


夏目家系譜 http://www2.harimaya.com/sengoku/html/natume_k.html によると、漱石の家系は古くは長野県の夏目という地名までつながるようだ。面白いことに、徳川氏の家来の奥平家に仕えた夏目氏は、大分の中津藩では福沢諭吉の福沢氏と同僚だったようだ。ちなみに、福沢氏も先祖は長野県の茅野あたりの人で、その石碑も立てられているという(このblogでも書いた)。

ところで、タイトルとは関係がないことで感心したこと。この『思い出』を読んでいると、漱石が、鉄道や船を使って、愛媛、熊本など何十時間もかかるはるか彼方に旅をしているが、行ったきりではなく、見合いのために帰省したり、見舞いや葬儀のために帰省したり比較的頻繁に長距離を旅行しているようだ。
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by newport8865 | 2007-10-23 20:55 | 歴史
台風一過の秋晴れの日、昼ごはんをたべに出たついでに、川崎市にある岡本太郎美術館に行ってみようかということで、カーナビで場所を調べたところ、生田緑地にあるということで、その方面にクルマを少し走らせた。

専修大学の生田キャンパスの入り口を少し入ると市営の駐車場があり、そこにクルマを置いて案内図に従って入ったところ、川崎市立の日本民家園という表示があり、面白そうなのでまずそこに入ってみることにした。大人500円、小中学生は無料だった。

正門と反対側の西口の方から入ったため、順路は逆になってしまったが、パンフレットを見ると、国の重要文化財に指定されている民家が多く、次々に茅葺の今となっては珍しい民家が見れら、それぞれ土間の部分には自由に立ち入りができ、面白かった。神奈川の村は、この民家園ができるきっかけになった家々がならび、東北の村では、「どんど晴れ」にもでてきた南部曲がり家を見ることができた。その後、関東の家では網元の家などもあり、次の信越の村では、越中や五箇山や飛騨白川の合掌造りが数軒あり、最後に、佐久は八千穂(現、佐久穂町)の上畑から移築された 重要文化財 旧佐々木家住宅 (昭和42年移築復原工事完成、同年重文指定)があり、驚いた。ちょうど、戌の満水の前の享保年間に建築され、その後寛保2年の戌の満水を免れたが、同じ村が大きな被害を受けたため、村そっくり今の位置に移ることになり、移築されたのが、寛保2年の末から翌年春にかけてだったという文書記録が残されており、貴重なもののようだ。

父の実家がこの近辺であり、親戚が畑八にあるということもあり、非常に懐かしかった。未だ私が高校生の頃まで、父の実家も江戸時代に立てられたという茅葺屋根の古い農家を、現代風に手を入れながら住んでいたし、私が幼い頃などは、囲炉裏を囲んで食事をし、箱膳も使っていたし、トイレもちょうどこの民家園のように外にあったものだった。そういう記憶も手伝い、非常に懐かしかった。園内の路傍には、佐久穂町から運ばれてきたという馬頭観音や庚申様、道祖神なども置かれており、まさか川崎で、佐久の風景に会えるとは思わなかったので、奇遇を感じた。

佐々木家住宅の後は、長野市から運ばれた水車小屋があり、その後、伊那から運ばれてきた三澤家などの宿場、商店などが並び、正門の手前の展示室に続いていた。

P.S. 全部を見終わるともう4時過ぎで、正門から退出した後、緑地公園をブラブラ散策すると、科学館前に寝台車、D51の展示があり、子どもたちが走って行った。科学館は無料で、川崎から出土した化石(アケボノゾウ)や生物の展示などがある比較的小規模の施設だった。岡本太郎美術館は大人700円ということだが、もう入館時刻を過ぎていたので次回に回した。この公園は野趣溢れる森林が周囲を取り囲み、なかなかいい場所だが、交通の便が悪いようだ。なお、数年前に閉園した向ヶ丘遊園は、この公園の続きにあるらしい。現在は薔薇園として公開されているようだ。
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by newport8865 | 2007-09-08 22:51 | 歴史
前回6/17(日)の『風林火山』は、新田次郎の『武田信玄』でも詳しく描かれた佐久侵攻だった。テレビドラマでは、これまでの謀略による城攻めではなく、晴信の主導による力攻めにより、佐久の豪族たちが皆殺しになった様子を描いていたが、さすがに多くの首級をさらしものとしたり、多くの捕虜を武田の黒川金山に連行したりという残酷なエピソードは避けていた。

大井とか笠原とか真田、祢津などの姓は、中学、高校のときの同級生にもあったが、当時の武将の一族がそのまま命脈をつないだ表れだろうか?

相木市兵衛は相変わらずの活躍で、また、いよいよ真田幸隆が武田に属すことになり、その家臣の春原(すのはら)一族も(現在も東御市には春原家住宅という旧家跡が史跡になっている)登場した。

真田家が後に上州の沼田にも領地を得たのは、幸隆が落ち武者として安中に居た頃に何か上州と縁ができたためだろうか?

なお、真田幸隆の息子たちが二人登場したが、昌幸は三男とのことなので、未だ産まれていないようだ。

追記:2007/06/24 今晩の『風林火山』によれば、志賀城攻めは次回になるらしい。甲府(府中、古府中)の真田館で、相木市兵衛が真田幸隆に対して「佐久がまた背いた。志賀城の笠原氏だ」と相談し、幸隆が「相木殿の同族ではないか?上州勢とも縁続きだ」と答えていたのだ。また、晴信が次回の志賀城攻めで、信虎のごとき残虐な力攻めをしようとしており、板垣信方などが懸念を露わにし、勘助の進言も退けられるようなのだ。

佐久と上州西部は、いくつかの非常に高所を通過する峠道により相当交流が活発であり、佐久の豪商といわれた神津氏(島崎藤村の『破戒』の出版を援助)や、小諸商人も、上州と信州の交易により財を成したらしい。また、高冷地ではあるが、佐久は「肥沃の地」であり、相当古い時期から米どころであったらしい。佐久の地侍の武田への不服従はそのような経済的な背景もあったのだろうし、上州との深い関係による援助を頼みにしていたこともあったのだろう。また、武田としても佐久、小県の米の確保という理由もあり佐久侵攻を執拗に行ったのではあるまいか?

その頃、佐久の新海神社はどのようなポジションにあったのだろうか?
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by newport8865 | 2007-06-19 20:46 | 歴史