ふるさと佐久


by newport8865
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カテゴリ:地誌( 13 )

以前からwikipedia記述で知っていたが、食料自給率の絡みで取り上げられた。日本一のレタス生産も結局は中国の労働力頼みで、それも日本のアルバイターが敬遠したからだという。
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by newport8865 | 2008-04-20 09:30 | 地誌
私の運営している本家blog 「日々雑録 または 魔法の竪琴」の記事で、今回の帰省時に立ち寄った「浅間縄文ミュージアム」についてタイトルの内容を書き留めておいた。


5/3-5/6 クルマで帰省

余談:複数のblogを立ち上げると記事の投稿をどちらにするか迷うことがあるが、このようにリンクをすることでその欠点を補いたい。
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by newport8865 | 2007-06-08 20:40 | 地誌
以前の記事で書いたが、父が旧・佐久町方面の畑での表面採集で発見した人面土器の一部らしきものを今回の帰省で見せてもらったが、小学生が作成したような稚拙な顔に頭部は古墳時代の埴輪のような兜(帽子)をかぶっているように膨らんでいるものだった。

首から上の部分のみで高さが3センチほど、頭部の直径は2cmほどの小さい粘土製の頭部だ。

土器の破片や石器などが表面採集できる畑で採集したものとのことなのだが、後世のものではないかという疑いも捨てきれない。

このような表面採集の出土物などは、時代確定などの方法はあるものだろうか?
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by newport8865 | 2006-05-11 20:42 | 地誌

南佐久郡誌 中世編

久々の投稿。

5月の大型連休に帰省したおり、書棚を覗いたところ父が購入した「南佐久郡誌」(確か 中世編だったと思う)があり、ページを繰ってみると、目次には、このブログであれこれ書き連ねたような内容がよくまとめられて記載されているようだった。

「佐久」という地名の語源についても、ミシャクジ信仰との関係に言及されていたし、今井野菊女史の研究についても書かれていた。

非常に大部な書であり、さまざまな研究者の論考の寄せ集めのようだが、自分のような関心をもっているものにとっては相当有用であり、またここまでは研究が進んでいるのだということに気づき多少衝撃を受けた。
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by newport8865 | 2006-05-11 20:33 | 地誌
更科、埴科の地は、森将軍塚の古墳以外にも、周辺の山の山頂、稜線部分に多くの古墳があり、いわゆる古代科野の国の中心だったとされる。

ところが、この地には、千曲川の対岸に、武水別神社という比較的規模の大きい神社があるが、あんずで有名な森の方には、由緒のある神社がないように思える。

王権と神社という点から少々不思議な感じがする。
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by newport8865 | 2006-01-12 20:34 | 地誌
延喜式 神名帳には多くの神社が出ているが、自分にとって比較的親しい神社に 須坂市の墨坂神社がある。
当社は其の草創年月不詳と雖、住古大和部族移住に際し同国宇陀郡榛原より墨坂神を 遷祀したるものなり。

とあり、

すみさかじんじゃ【墨坂神社】
(1) 長野県須坂市にある旧県社。祭神は墨坂神・建御名方命。
(2) 奈良県宇陀郡榛原町にある旧県社。祭神は墨坂神。

Kokugo Dai Jiten Dictionary. Shinsou-ban (Revised edition) ゥ Shogakukan 1988/国語大辞典(新装版)ゥ小学館 1988

と国語大辞典にも出ているほど。

須坂の墨坂神社は、それが転訛して須坂となったという伝承がある神社で、八幡町に墨坂神社(八幡神社)があり、芝宮に墨坂神社(芝宮)があり、その距離は一キロほど離れている。それぞれ大きい社域を持っている。現在では全く切り離された別の神社のようであるが、往古は上社下社のような関係の一社だったのであろうか?

この墨坂から須坂の転訛については、異説があるようだ。
一見墨坂(古代の神社)―須田(中世の地名や氏)―須坂(近世の地名)へ転訛のように思われるが、須田氏は墨坂神社勧請以前から存在していたと考えられ、発祥は別。
となっているが、須坂の墨坂神社は、延喜式内社であり、下記にあるようにそれ以前の天応年間(西暦781年)に奈良の墨坂神社の社領とされていたということで、創建は少なくとも延喜年間以前のはず。須田氏についてはここに詳しいが、奈良時代以前に須田氏が遡れるとは考えがたい。最近の自治体合併ではないが、須田郷と墨坂神社の須と坂をとって須坂となったとも考えられる。また須田城は現在の臥竜山にあたるらしい。

一方この須坂の墨坂神社の本社が上記(2)の奈良県にある墨坂神社であるという。

http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page208.html 
には、
又新抄勅格符抄によれば天応元年十月十四日(奈良朝末期で西暦781年)『墨坂神一戸信乃』と記されており現在御分社として長野県須坂市に墨坂神社が二社あるところから天応年間には信濃にまで神領があった大社であったことがうかがわれる

とあり、須坂の神社がすでに奈良時代に鎮座していたことが分かる。

ところで、この祭神の 墨坂神であるが、非常に古い神であるらしい。

司馬遼太郎のエッセイ、対談などで、奈良県のこの地方は大和朝廷にとってかつてはまつろわぬもののすみかだったらしい。奈良の西方の葛城山などは異端の神だった(役の行者の修業地)ということが述べられているが、この墨坂神もその古さからそのような異端系(反神武系)の神だったかも知れない。

ともかく、大和の東方の山深い宇陀郡の古社(なぜか延喜式内ではないらしい)と信濃の北方の善光寺平の東方の須坂が、往古確実なつながりがあったというのは非常に不思議なことだ。

(長野の善光寺の起源自体、飛鳥時代当時の中心地、大和、難波での仏教弾圧に関係しているというのだから、往時信濃の北部と畿内に往来があったことは理解できるのだが。「皇極天皇元年(642)信濃国麻績(おみ)里の本多善光(一説に若麻績東人(わかおみのあずまんど)とも)が堂宇を創建」 麻績 おみという地名が長野と三重の松阪付近にあるのも面白い)


なお、自費出版で、「八十歳からの自由研究(二) 日本の鉱物と地名 墨坂神社私考・鉄・朱」が出版されていることが分かった。

目次は以下の通り。この目次を読むと、砂鉄と須坂、奈良の墨坂神社との関係などが書かれているようだ。

墨坂神社私考 興津正朔
 序 章
一、墨坂神社の概略
二、芝宮と八幡宮
三、須坂と墨坂
四、日本と鉄の謎
五、記紀の謎と鉄
六、大倭の統一と古墳
七、崇神と墨坂神
 第一章 須坂と墨坂神社
一、須坂と砂鉄
二、芝宮
三、墨坂神社と須坂
四、論社八幡宮と周辺
 1八幡宮
 2周辺の史相
 3祠官山岸家
五、須坂藩と墨坂神社
 1氏子集団
 2須坂藩と墨坂
 第二章 墨坂神社と由緒書
一、紛争の墨坂神社
二、墨坂神社由緒書
 1社格
 2芝宮墨坂神社由緒書
三、終戦後の墨坂神社
 終 章
 結 語


鉄というと、飯山近郊木島平の弥生時代の遺跡で発見された朝鮮半島製の鉄剣を思い起こす。

最近の発掘から見た東日本

長野県の下高井郡木島平村の根塚遺跡、これから大問題になるだろう遺跡の資料を載せました(図19)。木島平村はスキーで有名なところで、東京の調布市と姉妹都市の関係にある村です。

 この根塚遺跡は、一〇〇メートルと五〇メートルくらいの楕円形の低い丘を持つ、盆地の水田の中にポツンとある遺跡です。この根塚と呼ばれる丘の中央部から発見された墳丘墓は長方形で三段のテラスを造っていますが、長方形の斜面には張石が一面に張ってある、弥生時代後期のあまり例を見ない墳丘墓です。この図面からははっきりしませんが、長方形プランの三段のテラスになっている、その平面に箱清水式の土器、北信濃地方の弥生時代後期の土器が副葬品として複数納められていました。ガラス玉も出てきましたが、さらに三年前に、いちばん下のテラスの埋葬遺壙からナンバー4、5という鉄剣が二ふり出てきました(図20)。

 その鉄剣を見ますと、長い方が七四センチくらいのものですが、脇から右手に一本突起が出ていて、先端が丸くなっています。さらに柄頭、握るところも丸くなっていて、錆びて固まっている。レントゲン写真を撮りますと、図20右の6、7のように、そこは渦巻状になっていて、柄頭のところは鉄を二つに割いて、内側にクルクルッと渦巻にしています。さらに右側から一本そいで脇に出し、それも渦巻にしている。

 私は木島平村から連絡を受けて、この写真を見せられました。私は、これは伽耶の鉄剣だと直観いたしました。しかし私は日本考古学が専門ですから、「明治大学の大塚が伽耶の鉄剣だと言ったって、専門じゃないから……」と言われるといけないと思いまして、親しくしている九州大学の西谷正教授に来てもらいましたら、西谷さんは「これは伽耶のだよ」と言うのです。西谷さんはソウル大学に二年留学していた人ですから、西谷さんが伽耶の剣だというのは間違いないわけです。

 それにしても、弥生時代、二世紀から三世紀代前半に、朝鮮半島の南の伽耶、洛東江下流域の釜山あたりから日本列島にこの鉄剣が運び込まれて、木島平にまで来ている。木島平村から千曲川、信濃川を下ると、すぐ日本海です。専門家がご覧になって、これは朝鮮半島南部の伽耶からの鉄剣であると言われますと、従来の日本考古学の理解、つまり伽耶の地域から対馬、壱岐、北九州、瀬戸内から畿内へ入り、そして畿内勢力によって、後の東山道を通って信濃の国にもたらされたという理解が崩れてしまうということになります。

 つまり私は、朝鮮半島南部の伽耶から人と新しい技術が日本海沿岸にダイレクトにやってきているのだと、そう考えているのです。海は文化を隔てるものではなく、むしろ非常にスピーディーに人と物を繋げるものであると理解したいと私は思っていますが、こういうルート、つまり大和政権や北九州を媒介にしないで越の国にダイレクトにやってくるルートがあったとすれば、これから東日本の古代文化の理解は相当考え直さねばならないだろうと、そう思います。


この木島平村は、飯山市の東隣。近世千曲川水運時代には、飯山から長野あたりまでは川舟の輸送が行なわれていたという。

なお、須坂には、古くから笠鉾祭り(祇園祭り、牛頭天王=スサノオノミコト)という行事が伝わっている。もともと京都の祇園社(八坂神社)が発祥の祭りで、山鉾巡行で有名だが、須坂では小規模な笠鉾というものを各町内が持って練り歩く。天王おろしという儀式もあるという。珍しい民俗行事だが、この由来は?

ところで、八坂というと ヤサカトメノミコト(諏訪大社のタケミナカタノミコトの妻)が思い浮かぶが、八坂神社とヤサカトメノミコトは関係があるという検索結果はないのだが、何らかの関係がないのだろうか?
面白いQ&Aがあった。ここに、長野では上田の国分寺で有名な「蘇民将来」は、もともと八坂神社の行事だとあった)

また話が逸れるが、上田旅行(真田ゆかりの地巡り)VOL.1に、松代の皆上山の話題が出ていた。

また、逸れるが、ヤサカトメノミコト関係で北海道の諏訪神社

ところで、この建御名方命、記紀神話のうち「古事記」には国譲りで重要な役割りを演じるのだが「日本書紀」には、まったく登場しない。オオクニヌシの神統譜にも入っていないという、ちょっと謎のある神サマ八坂刀売命にしても、その名前の解釈からするとどうも山の女神サマらしいのだが、彼女(?)の神話伝承は存在しない。

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by newport8865 | 2006-01-11 20:32 | 地誌
諏訪大社の祭神 建御名方富命・八坂刀売命・事代主神。

新海三社神社の祭神 興波岐命・建御名方富命・事代主神。
http://www.dynax.co.jp/sinsen/culture/jinjya/j_shinkaisanjya.html

神代の昔、興波岐命が父君建御名方富命(大国主命の第二子・諏訪大社の主神.事代主命は、建御名方富命の兄君)を補佐して科野(しなのの)國を作り、後佐久地方の洪水を治め沃土を広め、その功を終えてこの地に鎮座された。古くは佐久郡を巡幸し、祭事は最も尊厳に行われた.西本社は、相殿造りで、源頼朝の命により誉田別命(八幡大神と称せられる応神天皇のこと)を奉斎した.源氏の尊崇が篤く、また武田信玄も社殿造営など深く崇敬し、起請文と鰐口・梵鐘を寄進した.佐久の一の宮


諏訪も佐久も国つ神系を祭神とする神社であり、大国主の命の息子、孫を祭ることで共通するが、諏訪神社という名前にはならなかったのはなぜか?何かルールがあるのだろうか?



「神奈備にようこそ!」の延喜式神名帳 神社一覧
東山道神 三百八十二座 大 二座(就中五座。預月次。新嘗祭案上。)小 三百座
  近江、美濃、飛騨、信濃、上野、下野、陸奥、出羽
の信濃の国では、信濃國:48座 大7小41 があがっている。

うち佐久郡はわずか三社しかない。(延喜式は、西暦927年に成立。なお、相当古い神社でも式内社でないものもある。それらを式外:しきげ というらしい。石清水八幡宮、北野神社など)

なお、諏訪大社は式内の大社として載っており、また佐久の新海三社神社と何らかの関係があると思われる甲斐の国の佐久神社も式内社である。

ちなみに
佐久郡[サク]:3座 並小 (なべて小社と訓むのだろう)

英多神社[エタ](佐久) 訪問したことあり。山間の物寂しい神社だった。この英多は字名の英多澤によるものらしいが、神社が先か地名が先か?祭神はタケミナカタノミコトであり神紋も諏訪大社系の梶の紋なので諏訪社の流れだろう。 (なお、英多の字は、あがた の美称でもあるという。Google で 英多 語源などで検索するとヒットする。なお、信濃国のあがたについては、信州考古学探検隊のページにあった。)

長倉神社[ナカクラ](軽井沢) 当時の神社は浅間山の火山灰に埋もれてしまったらしい。

大伴神社[オホトモ](望月)

寛政の時代、佐久市にある新海神社は、佐久郡内一の大社であり、
佐久郡内の各神社の神官は、新海神社の神事へ奉仕することになっていたが、
当社英多神社・長倉神社・大伴神社の三社は式内社であることを理由に、拒否。
それに対し、新海神社は寺社奉行へ訴訟を起こすという事件があった。

玄松子さんのページより

新海神社は、佐久一宮とされるが、その成立はいつ頃だろうか?ネットには詳しい記事がまだ見つからない。比較的新しいのかも知れない。記録的には、源頼朝の命によって「誉田別命」(応神天皇)を合祀
したとされるから、それ以前からあったことは確かだ。また佐久神社は、甲斐源氏の末である武田晴信(信玄)にも崇拝されたというが、武田氏による佐久侵攻に伴って甲斐の国の佐久神社が分社されてきたという可能性はないだろう。

神社のある裏山には、復元された古墳がある。幸神(さいのかみ)古墳群というらしい。

さいのかみ と言えば、賽の神さいのかみ【道祖神・幸の神・斎の神・塞の神】=さえのかみ(道祖神)である。つまり、ミサクチ(ミシャクジ)の神に繋がる。また、銅剣を多く出土した出雲の荒神谷を連想させる。現在リンク切れのような状態だが、かろうじて下記の記述を拾い出せた。

幸 神 古 墳 群 さいのかみ こふんぐん
 指 定  町史跡  昭和47年5月5日
 所在地  臼田町大字田口4804外
      (幸神、外九間、中原)
 所有者  新海三社神社

 雨川右岸に形成された広大な扇状地の台地上には、臼田町で最大の面積
(約15万㎡)を有す原遺跡が所在している。遺跡地内には、幸神、外九間、中
原の各地籍に12基の古墳が存在し、これを幸神古墳群と総称している。古墳
群の中で比較的原形をとどめている4基が町史跡として指定された。 

 写真に示した幸神1号古墳は、墳丘が3分の2程度残っており、臼田町に所
在する計50基の古墳中では、原形をとどめている点で最高の資料である。築
造当時における12基の古墳は、幸神1号古墳とほぼ同規模の状態の墳丘が
築かれていたとおもわれるが、盗掘や耕作の関係から徐々に削りとられ、石室
が残っているのは指定された、幸神1・2号古墳、外九間1号古墳、中原1号古
墳の4基のみとなった。

 史跡指定の4基の古墳は、墳丘径10~12m、高さ3~3.5mを測り、玄室
は幸神1号古墳が最大で3.6×3.2mを測る。その他は2m×3m前後の玄
室が築かれている。羨道は、長さ2.8m前後、幅1.5m前後を測る。幸神1号
古墳は羨門から羨道の部分が土中に埋もれているため、原形を残していること
が予想され構造の手がかりを得る貴重な資料となるであろう。

 古墳の築造年代は、調査が実施されていないため明らかではないが、昭和63
年実施した原遺跡の発掘調査で、古墳時代末期から奈良時代にかけての大集
落の存在が認められたことにより、この集落の人々が築いた古墳であると考え
られる。




このころからこの地は古墳時代からの信仰の地だったのであろう。いわゆる「佐久の王」の墳墓だったものだろうか?

神紋については、残念ながら網羅的によくまとまった玄松子さんのリストに新海三社神社がないので、他の紹介ページを参照すると、本殿の垂れ幕?に紋が見える。これは、立梶の葉なので、紋から言っても諏訪系だろう。


また、諏訪の「先宮神社」と佐久の新海神社が関係するという興味深い記述があった。ここに述べられている内容は少々理解しにくいところがあるが、文字そのものは明らかに「佐久」 「新海」を含んでいる。 
●先宮神社の社名の由来
先宮神社の社名は、「佐久新海(佐久ノ新海)、佐久新海明神(佐久新開明神)、さき志んかい、真海社、新海宮社、鷺宮(鷺宮神社)、鵲宮、先宮(先野宮)、先宮社、先宮神社」と称せられてきております。 


ただし
●先宮神社の創立
 先宮神社については旧記が散逸していて正確な資料がなく傳えられている口碑によるしかなく、神社誌を綴る事は大変難しいこてであります。その口碑も正確に伝承されたものか、後世のものであるか判断に苦しみます。前述のように鎮座の前提となった原始時代における諏訪地方の信仰状態や、祭神奉祀の経過を考えながら推測する以外に方法がないと思われます。
とあるように、口碑自体が後世にさまざまな影響のもとに変容していったこともありうるので、上記の「佐久新海」という文字面も後世諏訪と佐久との交流が盛んになった時代に形成されたものということもありうる。


さらに、
深谷市では利根川に近い大字新戒(しんがい)の古櫃神社(http://homepage3.nifty.com/nireyamajinja/ohsato/26kohitu.htm)が秦氏の祖神を祀ったと由緒にありますが、平成CDではその「本領」とする長野県南佐久郡臼田町大字田口の新海三社神社の由緒に秦氏のことはありません。

神奈備にようこそ」に、この記述あり。

新海三社神社については、このような展示もあったらしい。(国立歴史民俗博物館の「なにが分かるか、社寺境内図 平成13年10月2日(火)~12月9日(日))このような貴重な記録が残されているということからみても、この神社の繁栄がしのばれる。

信州の神社 http://www.dynax.co.jp/sinsen/culture/jinjya/ に紹介あり。

ところで、佐久の風はふるさとの風は、佐久に関する素晴らしいページだが、新海三社神社の紹介があり、ここに非常に示唆的な記述があった。

「うえ右の写真中央がが「にいさく」の神、「與波岐命」を祭っ東本社、後に三重の塔が聳える。説明には別名「御佐久地神」也「佐久」は「サク」拓くことを意とする。とある。」


御佐久地神!読み方次第では、「みさぐちのかみ」、つまり古代信仰で耳にする、みしゃぐちのかみ、みさぐちのかみのことではないか! ミサグチノカミについては、諏訪神社の縁起にも深い関係があるとされ、自分の記事でも面白い記述としてリンクしておいた。縄文時代にも遡るという古い信仰だという。

ミサグチ神の研究では、今井野菊さんという方が先駆的な研究を行っているという

信濃国の天白神、ミサク神研究者である今井野菊氏の報告によりますと、ミサク神(ミサクチ神)も諏訪の固有神ではないことがわかります(同神をまつるのは、長野県675社、静岡県233社、愛知県229社、山梨県160社、岐阜県116社とされますが、三重県には140社が確認されるとのことです…清川理一郎『諏訪神社 謎の古代史』彩流社)。三重県=伊勢の地にミサク神の祭祀があることは、天白神と同根の神であることを示唆しています。諏訪のミサク(チ)神に、神宮の元神である伊雑[いさわ/いぞう]神の名が散見されることが、それを端的に表しています(小口伊乙『土俗より見た信濃小社考』)。
 東北伝説(http://www5.ocn.ne.jp/~furindo/)の掲示板 「千時千一夜──瀬織津姫&円空情報館より

古代信仰対象の「ミサグチ」の当て字 御佐久地 から 佐久という地名が生じたというのはどうだろうか?ただし、多くのミサグチ系の神社がそのような当て字は使わず、「御社宮司社、御射山社、社宮社」と表されることが多かったようだ。そうなると、これが当て字だとする根拠は弱いが、美称としてはありうるだろう。

こう書いたが、google で 「佐久 "ミサクチ" OR "ミシャクチ" OR "ミサグチ" OR "ミシャグチ" OR "みさぐち" OR "みしゃぐち" OR "みさくち" OR "みしゃくち"」で検索をかけたところ、このミサクチの当て字として 佐久神が用いられているようだ。諏訪大社と新海三社神社との距離的な近さ、祭神の共通性から言ってもミサクチから美称の佐久が出たということは十分考えられるのではないか。諏訪が古代信濃の中心地だったことはほぼ確実だが、佐久はそこからみると僻遠の地。僻遠の地に言葉の源流的なものが残されることはよくあることだから。 

古代であそぼ掲示板には、佐久の近津神社のことで興味深い記事が載っていた。


関東と諏訪をつなぐようにみえる近津チカツという社名の神社に注目しています。
伊弉諾伊弉冉神の前の代の青橿城根尊(アオカシコキネ=面足尊オモタル、奥方は惶根尊カシコネなど)を祀っています。
茨城や千葉に多いようで、社名は違いますが東京にも2社あり(1社はスサノオも祀る)。
面足尊(七代目が伊弉諾伊弉冉神なので第六天神ともいう)として祀られるのは古事記の神代系譜に習合させたからだと考えています(だから生き残っているのかもしれない)。

長野県佐久市にも近津神社があるので観光課に問い合わせたら昔の地名が千鹿頭だったことがわかりました。
(大蛇と池が由来の神社)
千鹿頭とは諏訪の千鹿頭神(建御名方の子)に違いなし。


また、佐久穂町(旧佐久町)の巨大な石棒(年代は不明らしいが)のこともこの検索から出てきた。

これについては、信州発考古学最前線のvol.18 佐久の日本一の大石棒
http://homepage3.nifty.com/kamosikamiti/sonota/saizensen/H14win.html
が詳しい。


言うまでもないが、神社信仰は、アニミズム的な山、川などの自然の神格化はもとより、由緒の古い神社の多くは、ある時代のその土地の開拓リーダーを神格化して祭ったのであろう。また、風水害・日照り・冷夏・地震・疫病などの災厄やたたりから免れ、食料の収獲・収穫を安定化しようという意図が強いものだろう。同じ意図から、たたりから免れるための鎮魂のための神社もあるようだ。

みさぐち信仰は、縄文に遡る土俗的な信仰に繋がるもののようだが、縄文文化が栄えた諏訪の八ヶ岳山麓、及びその裏側の佐久の八ヶ岳山麓に同様の土俗信仰の痕跡が残されていると想像することは自らの遠い祖先たちからの呼びかけ・インスピレーションのような気がする。(少々神懸り的になってしまった)

ただ、起源、由来などを調べていくと、超自然的的な記事にも突き当たることがある。信仰の世界との境界ゆえやむを得ないことだが。また、諏訪地方の考古学の偉人藤森栄一や柳田国男の名前などが垣間見える。また宗教学者中沢新一の「精霊の王」が道祖神、ミシャグチ神をテーマとしているらしい。

佐久の駒形神社についても記述あり。
ここのところ駒形神社を調べていて、長野県佐久市塚原に興味深い駒形神社があることをみつけました。ここの祭神は、「騎乗の男女二神体」だというのです。記紀に準じた祭神名は、表向きはウケモチ神としていますが、主祭神は「騎乗の男女二神体」とことわっている、珍しいケースです。
 駒形神はあとから馬神となっていきますが、もとは水神かつ養蚕神でした(詳しい話は近日に、ここに書きます)。佐久の駒形神社の祭神は、神の依代=乗物としての「馬」、つまり神馬[じんめ]を、もっとも端的に表しています。



道祖神ももともとミサクチ神から由来するものらしい。
 佐久で暮らした子どもの頃、小正月の道祖神の祭りは子ども行事としては最大のイベントだった。正月には「道祖神の御年始」と掛け声を掛け、小字(こあざ)の集落の中の家々を訪問して獅子舞をして小遣いをもらい、小正月には「かんがりや(神上がり屋?)」というドンド焼き行事を大人子どもが一緒になって祝った。お繭玉(おまいだま)と称する上新粉を練って緑や桃色に彩色した餅を木の枝にさし、神棚に飾ったのち、ドンド焼きの火にかざしてから食べた。書初めもその火で燃やして字の上達を祈った。

かんがりや については、神仮屋とふってあるページがあった。語感から、神上がり(神が天に帰る、天子が崩御する)屋かと思っているのだが。また、かんがりや を 「かんがり」と短縮している方が多いようで、結構ヒットした。「かんがり」を「かあがり」としている例もあるようだ。かがりびの転訛というふうに考える向きもあるようだ。

このドンド焼き、門松を簡単に積み重ねたり、塔のようにする形もあるようだが、私が子どもの頃に経験したのは、山から杉?の葉を多く採集してきて、各戸の門松とその杉葉で社殿の形を作り、お繭玉を飾り、それを子ども達が正月から太鼓をたたきながら神社の傍らで保ってきた焚き火の上に乗せ、ドンド焼きを開始するというものだった。その社殿の形から、神が火に乗って上がる社 = かみあがるや 転訛して カンガリヤ との推測だ。山奥の村だったので、かんがり まで略されず古形を保ったのではあるまいか? 

道祖神は さえのかみ(さえぎるかみ)と呼ばれるが、記紀神話では、イザナギがイザナミの行ったヨミの国から逃れる際に 磐石(まるい石だろうか)を投げ(さえのかみ)、杖を投げ(ふなどのかみ 道祖王をふなどのおおきみとも訓む)、地上の国に逃れたという。この辺はここに詳しい。

長野県内(旧大岡村)には非常に特異な道祖神がある。これは鹿児島の甑島に伝わる年神様 トシドンや秋田のなまはげを連想させるもの。むしろそれよりいわゆる南洋の仮面神を想像させる奇怪な面相だ。
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by newport8865 | 2006-01-10 19:39 | 地誌
ブックマークさせてもらっている四方赤良さんの「長野県の歴史」の佐久の歴史に、藤岡市には芦田町や岩村田町という地名があるという記事があり驚いた。

 
天正18年(1590)7月小田原城は遂に落城し、北条氏は滅び、関東の地は徳川家康に与えられました。これにより徳川旗下の松平康真も転封を命じられ、領地を3万石に削られて上野国藤岡城(群馬県藤岡市)に移りました。これに際して松平康真の領民、家臣達は、佐久に留まるか藤岡に着いていくかの選択に迫られ、寺社や商家も含めて多くの者達が藤岡に移り住みました。現在の藤岡市内には彼等が築いた岩村田町、芦田町という地名が残っています。



藤岡市のホームページにあたってみたところ、市民の質問コーナーに藤岡市史からの抜粋があり興味深かった。


現在の藤岡市街地には、地名としてはありませんが江戸時代末期には「芦田町(あしたまち)」の名前が使われていて、現在でも通称で使用されています。
「芦田町」の由来については、現在の藤岡市街地の中心となる城が「藤岡城(ふじおかじょう)」または「芦田城(あしたじょう)」と呼ばれ、天正18年(1590年)に芦田康貞(やすさだ)が築いたといわれています。この城に隣接していることから「芦田町」の名前が付けられたと思われます。
 この芦田氏の由来について、「藤岡市史」から部分的に抜き出して簡単に説明します。
「芦田氏は信州依田(よだ)氏より派生して、依田光徳が佐久郡芦田(立科町)に住んで芦田氏と称しました。光徳の死後子孫は光徳寺を建立し菩提寺(ぼだいじ)としましたが、現在、光徳寺は長野県立科町と藤岡市の2箇所にあります。光徳の子孫である信守(のぶもり)・信蕃(のぶしげ)親子は武田信玄配下の武将で、武蔵国御嶽城(みたけじょう)(埼玉県神川町)に入り、上野国浄法寺(じょうぼうじ)(群馬県鬼石町)に居住したという。その後、天正10年(1582年)武田氏滅亡により徳川家康配下となり、本能寺の変後の活躍によって信蕃の子、康貞が上野国緑野(みどの)郡(藤岡市)に領地を得て藤岡城(芦田城)の築造を開始しました。しかし芦田康貞は慶長5年(1600年)に事あって領地没収となったため、藤岡城は築造途中で廃城となりました。」

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by newport8865 | 2006-01-05 20:40 | 地誌

佐久の市町村

平成の大合併で佐久の市町村も様変わりした。

小諸市
佐久市 (臼田町、浅科村、望月町が合併)
東御市 (小県郡東部町と北佐久郡北御牧村が合併)
北佐久郡 軽井沢町 御代田町 立科町
南佐久郡  小海町 佐久穂町(佐久町と八千穂村が合併)
        川上村 南牧村 南相木村 北相木村

合併等については、WIKIPEDIAの消滅した長野県の市町村に詳しい。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B6%88%E6%BB%85%E3%81%97%E3%81%9F%E9%95%B7%E9%87%8E%E7%9C%8C%E3%81%AE%E5%B8%82%E7%94%BA%E6%9D%91%E4%B8%80%E8%A6%A7

市町村変遷のページは体系的にまとまっている。

小諸市は、新幹線誘致段階から佐久市とは友好的ではなくなってしまい、また歴史的な自負からも小諸の名を失いたくないということ、財政が豊かでなく周辺市町村との合併プロポーズがないことなどから難しい立場にあるのではなかろうか?

軽井沢町と御代田町の合併はどうだろう?

また立科町は小県郡・上田市とのつながりが強いが、長門町と和田村が長和町となったばかり、また丸子町、武石村、真田町が上田市と合併ということなので、やはりすぐには合併にはいたらないだろう。

南佐久郡南部の町村は、険しい自然地形により分かれているため相互の交通の便が悪く、あるとすれば川上村と南牧村。南相木村・北相木村と小海町の組み合わせがあるだろうか?
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by newport8865 | 2006-01-05 20:12 | 地誌
http://www1.ocn.ne.jp/~oomi/itiran.html


新海三社神社 http://www1.ocn.ne.jp/~oomi/sinka.html

駒形神社 http://www1.ocn.ne.jp/~oomi/koma.html

高良社本殿 http://www1.ocn.ne.jp/~oomi/kou.html

六地蔵幢 http://www1.ocn.ne.jp/~oomi/zizou.html

釈尊寺 http://www1.ocn.ne.jp/~oomi/syaku.html

小諸城重要文化財2登録 桃山時代建造物 小諸城三之門・大手門 
http://www1.ocn.ne.jp/~oomi/kosiro.html

真山家住宅 http://www1.ocn.ne.jp/~oomi/sana.html

旧小諸本陣

旧中込学校 http://www1.ocn.ne.jp/~oomi/naka.html

旧三笠ホテル 軽井沢町

この中で古代史的に注目すべきは、現、佐久市(旧、浅科村)八幡の、八幡神社内の高良社だろう。高良とは高麗のことで、弥生、古墳、奈良時代初期頃に朝鮮半島から渡来した人たちのこと。「日本の朝鮮文化」(司馬遼太郎などの対談集、中公文庫)によれば、関東地方開拓のために渡来系の開墾技術者が数千人単位で古墳時代頃関東に移住したという。東京の狛江(こま に通じる)、群馬の甘楽(から に通じる) なども渡来系のコマ、カラに通じる地名だという。平安から鎌倉期の関東武士団自体、この渡来系開拓者集団の子孫ではないかとの指摘があった。
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by newport8865 | 2005-12-12 20:04 | 地誌