ふるさと佐久


by newport8865
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カテゴリ:地名 人名( 10 )

「さく」という言葉。やまと言葉だと思われるものを集めてみた。
 なお、漢語では、「作」を初めとして沢山あるが、佐久の地名とは関係が薄いのではないかと思われる。

さく【幸く】
〔副〕「さきく(幸)」の上代東国方言。*万葉‐四三四六「父母が頭かき撫で佐久(サク)あれていひし言葉(けとば)ぜ忘れかねつる」
 (筆者注:これまでこの「さく」に気が付かなかった。万葉集にこのような歌があったとは!)

さく
鍬(くわ)で田畑を打ち返すこと。また、その打ち返したところ。田畑の溝(みぞ)や畝(うね)。さくり(決)。
さくを切(き)る 鍬で、畑に溝をつくったり、畝間の土を農作物の根元に寄せかけたりする。
 (筆者注:これは、父が佐久の語源候補として挙げているのを聞いた記憶がある。)

さく
植物「みくり(実栗)」「はますげ(浜菅)」「しおくぐ」などの異名。

さく
魚を大きくおろした身。「まぐろ(かつお)をさくにおろす」

さく【裂く・割く】
Ⅰ 〔他カ五(四)〕
1 一つにまとまったものを、手などで二つに離す。ひきやぶる。やぶく。割る。「布(闇・空気)を裂く」*塗籠本伊勢‐三八「うへのきぬの肩を張りさきてけり」
2 刃物などで切りひらく。切り割る。切り裂く。「鳥を割く」*私聚百因縁集‐六・五「此れは太子の為母后の胸を却(サク)」
3 目尻などを裂いて入墨をする。*古事記‐中・歌謡「胡恟子(あめ)鶺鴒(つつ)千鳥ま鵐(しとと)何ど佐祁(サケ)る利目(とめ)」
4 人と人との仲を隔てる。「夫婦の間を裂く」*頼政集‐下「夢にも中をさくと思はん」
5 一部を分けて他にあてる。「時間を割く」*書紀‐継体六年一二月(前田本訓)「抑由有り。縦(も)し削(サイ)て他に賜はば、本の区域に違ひなむ」
Ⅱ 〔自カ下二〕⇒さける(裂)


さく【佐久】
長野県東部の地名。佐久盆地の中央部にある。江戸時代に内藤氏一万五千石の城下町、中山道の宿場町として発達した岩村田が中心。鯉の養殖がさかん。昭和三六年市制。

さく【咲く】
〔自カ五(四)〕(「さかえる(栄)」「さかる(盛)」と同源で、勢いが盛んになるのをいうか)花のつぼみがひらく。*書紀‐大化五年三月・歌謡「もとごとに花は左該(サケ)ども」

さく【秀く】
〔自カ四〕(「さく(咲)」からの派生)波などが高く立つ。波頭が白く砕け散る。→さきたつ(秀起)。*万葉‐四三三五「今替る新防人が船出する海原の上に波な佐伎(サキ)そね」

さく【離く・放く】
(「さかる(離)」に対する他動詞)
Ⅰ 〔他カ下二〕
1 間を離す。ひきはなす。*書紀‐允恭八年二月・歌謡「細絞形(ささらがた)錦の紐を解き舎気(サケ)て」
2 二人の仲を隔てる。ひきさく。*万葉‐三四二〇「上毛野佐野の舟橋取り放し親は佐久礼(サクレ)ど吾は離るがへ」
3 (他の動詞の連用形に付いて、その動作をすることによって)思いをはらす。気を紛らす。*続日本紀‐宝亀二年二月二二日・宣命「誰にかも我が語らひ佐気(サケ)む、孰にかも我が問ひ佐気(サケ)むと」
4 遠方に目を放つ。遠くを見やる。*古今‐四〇六「あまの原ふりさけみればかすがなるみかさの山にいでし月かも」
Ⅱ 〔他カ四〕Ⅰに同じ。*万葉‐四五〇「行くさには二人わが見しこの崎を独り過ぐれば情(こころ)悲しも一云見も在可(サカ)ず来ぬ」

さくい(‥ゐ)【栄井】
(「さく」は永遠に栄えるの意)良質の井戸をたたえていう語。また、井の神の名。*延喜式・祝詞‐祈年祭(九条家本訓)「生井・栄井(サクヰ)・津長井・阿須波・婆比支と、御名者白て」
 (筆者注:栄だけでは、「さか、さかえ、はえ、はやし」と読む。)

さくいし【佐久石】
長野県佐久市大沢から切り出す淡灰緑色の安山岩。

さくさく
〔副〕
1 水などが滞りなく軽快に流れるさまを表す。さらさら。*宇治拾遺‐一・一八「白く新らしき桶に水を入れて、此の釜どもにさくさくと入る」
2 歯で物をかむ音、野菜などを刻む音、雪や砂などを踏んで歩く音、鍬(くわ)、鋤(すき)などで耕す音など、連続する軽快でさわやかな感じのする音を表す語。「さくさくと林檎をかじる」
3 ものごとをきっぱりと言うさま。*日葡辞書「Sacusacuto(サクサクト) モノヲ ユウ ヒトヂャ」

さぐじ【三狐神】
(「みけつかみ(御食神)」の当て字である「三狐神」を音読した「さんこしん」の変化)農家でまつる田の神。

みけつ【御食つ】
〔連語〕(「つ」は「の」の意の格助詞)天皇の食料の。御飲食物の。
御食つ神(かみ) 
1 食物をつかさどる神。大宜都比売神(おおげつひめのかみ)・保食神(うけもちのかみ)・倉稲魂神(うけのみたまのかみ)・豊宇気毘売神(とようけびめのかみ)・若宇迦乃売命(わかうかのめのみこと)など。
2 宇賀御魂神(うかのみたまのかみ)、すなわち稲荷の神の異称。俗に「三狐神」と当て字されたので、狐にこじつけられる。
御食つ国(くに) 天皇の食料を献上する国。*万葉‐九三四「朝凪に楫の音聞こゆ三食津国(みけつくに)野島の海人の船にしあるらし」
御食つ物(もの) 神への供え物。天皇の食膳に奉る食物。*書紀‐雄略一二年一〇月(前田本訓)「饌(ミケツモノ別訓おほもの)を覆(こほ)しつ」 (筆者注: この下の、石神のミシャグジのほか、御三狐神で、ミサグジの可能性は?)


さぐじ【石神】
「しゃくじん(石神)」の変化した語。

しゃくじん【石神】
奇石、石棒、石剣などを神体としてまつった神。安産、良縁、治療、子育てなどの霊験があるという。いしがみ。 (筆者注:改めて ミシャグジ とは 御石神のことだろうか?)

いしがみ【石神】
Ⅰ 神霊が石にこもり、また、石に寄りついて顕現するという信仰に基づき、その依代(よりしろ)をまつった神。しゃくじん。
Ⅱ 狂言。各流。妻に離縁話を持ち出された夫が、妻の祈誓する石神になりすまして自分に都合のよい託宣を下す。



さくぼんち【佐久盆地】
長野県東部、浅間山の南側に広がる高原性の盆地。古くからの馬の放牧地で、高原野菜の産地。佐久平。

さくむ
〔他マ四〕岩や木の間を押し開き、踏み分ける。踏み分けていく。*万葉‐二一〇「石根左久見(サクみ)て」

さくやま【佐久山】
栃木県大田原市の地名。江戸時代は奥州街道の喜連川と大田原の間にあった宿駅。

さくゆり【佐久百合】
ユリ科の多年草。伊豆諸島に生え、観賞用に各地で栽培される。茎は直立して太く、高さ一・五~二メートルになる。葉は長楕円形で多数互生し長さ一五~二〇センチメートルで短柄がある。七月、茎の先に径約三〇センチメートル、長さ一五~一八センチメートルの純白色に黄色の斑点のある広鐘花を数輪から一二、三輪つける。球根は扁球形で径約一〇センチメートルになり苦味がなく食用となる。ためともゆり。においゆり。はちじょうゆり。さっくいねら。

(筆者注: 園芸では、作百合の表記が多い。)


以上、Kokugo Dai Jiten Dictionary. Shinsou-ban (Revised edition) ゥ Shogakukan 1988/国語大辞典(新装版)小学館 1988からの引用
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by newport8865 | 2015-10-01 20:00 | 地名 人名
アイヌ文化についてのエッセイとして読んだ。

人類学者の埴原和郎氏などの研究によりもともと日本列島に住み始めた縄文人の末裔がアイヌ人(ウタリと呼ぶのが適切のようだが以下通称を用いる)や南西諸島人で、現日本人の多くは縄文人とそれ以降の渡来人の混血だということが明らかになっているようだ。(先日のテレビ放送でも、弥生顔、縄文顔について人類学者が一般向けの教養番組で、タレントの顔を分類しながら面白おかしく解説をしていた)

参考:歴史と世間のウラ というサイトは面白い

現代まで辛うじて続いているアイヌ文化は、当時の縄文文化を継承しており、天台密教の「一切衆生悉有仏性」(生きとし生けるものはすべて本性は仏である)からさらにすすめて「草木国土悉有成仏」(ありとあらゆるものはすべて仏になる)」という日本仏教独自の思想の元に、その縄文文化を継承したアイヌ文化・宗教観があるのではないか、と梅原猛は書いているようだ。アイヌ語の地名では山も川も擬人化されているというところにその根拠の一つがあるようだ。

(とすると、八百万(やおよろず)の神々も同じ縄文的なアニミズムの現れだろうか?)

アイヌ語の地名は、北海道以外にも多く残され、アサマ、チクマなど佐久にも深い関係のある地名もアイヌ語由来だという説がある。また、先に北海道の佐久という駅名について触れたとき、そのサクの語源はアイヌ語にあるということが述べられていたほどだ。

佐久はアイヌ語のサクコタンナイからきていて、サク・コタン・ナイ(夏の・村・川)で夏に生活する集落のある川だったことから名付けられている。


縄文学の一つとして、アイヌ民族の言語、文化、風俗、習慣などを研究する分野はあるようだが、その成果はどうなのだろうか?

その北海道の佐久の地名を発見した旅行で稚内を訪れ、その地の博物館で、アイヌ系の文化の分布が北海道本島だけではなく、沿海州やサハリン、そして確か千島アリューシャン列島方面にもあることを知った。現存するアイヌ文化はそちらから(海外)の影響も多分に受けているのだろう。

また縄文遺跡・土器が北海道各地で発見されたことを、遅ればせながらこの博物館の展示によって知った。その後、本州以南では縄文文化から弥生農耕文化に移行したが、北海道では農耕文化の影響はなかったようだ。非常に不思議だ。縄文期に津軽海峡を渡れた人々が、なぜ弥生時代には北海道へ渡ってその文明を伝えなかったのだろう。自然的条件が大きく異なったためか?(沿海州、サハリン、千島アリューシャン列島方面では縄文系の遺跡の発見などはどうなのだろうか?)

いわゆる蝦夷(えみし、えぞ)と呼ばれ、平安時代には奥州藤原氏の文化を花開かせた民族が、縄文日本人の直系の人々だとすると、はるか時空を超えており、北方・大陸系の外部影響を除外はし難いだろうが、アイヌの文化人類学、民俗学的な研究と縄文の文化研究について調べてみたいものだ。

えみし【蝦夷】
(「人」の意のアイヌ語emchiu enchuに由来)「えぞ(蝦夷)Ⅰ」の古称。*書紀‐神武即位前・歌謡「愛瀰詩(エミシ)を一人(ひだり)」

Kokugo Dai Jiten Dictionary. Shinsou-ban (Revised edition) ゥ Shogakukan 1988/国語大辞典(新装版)ゥ小学館 1988

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by newport8865 | 2006-01-31 20:56 | 地名 人名
しんかい しんがい などで GOOGLE検索を行ったところ、「新開」氏という武将の家系が目に留まった。

武家家伝 新開氏

新開氏の祖先は、天武・持統朝以後、辺地の開発のために移住させられた新羅系渡来氏族の秦氏だという。秦氏は農・工技術集団として信濃に入り、佐久・更級・東筑摩地方に広がり、地方豪族として成長したものと考えられている。そして、その一派が武蔵国の新戒(榛沢郷大寄郷)に移住し開発領主になったのは、平安末期のころと思われる。


ここに 渡来系の秦氏 および 「佐久」 が登場することが注目される。

そして、その裔は四国は阿波の国にいたるという。

◆佐久新海神社の別名もあるという 先宮についても 別のサイトがあった。

◆和田村にも 新海神社があるという。


仮に、新海三社神社がその新開という別名から、上記武将の新開氏に関係があるとすると(由来にはそのような記述はないという記事があったが)、その家系図からは傍系かどうか分からないが、渡来系の秦氏と関係があるようである。

前にも触れた「日本の朝鮮文化」では平安期の関東武士団そのものが、これら渡来系開拓民の裔という説もあるそうなので、農耕開拓を記念する神社や馬匹生産地と、渡来系との関係は非常に深いものと想像される。

新海三社神社が、後世、「佐久一之宮」とされるほどの規模の大きい神社であるにも関わらず、延喜式神名帳(えんぎしき じんみょうちょう)に掲載されていないことは、同じく佐久の名社である、浅科の八幡神社(高良社)や佐久市の駒形神社が記載されていない一因ではないかと思われる背景、つまり渡来人系ということと関係があるのではなかろうか?

 伊勢神宮を頂点として官幣社(名神大社、大社、小社)、国幣社(大社、小社)と神々を序列体系化しています。選定に当たっては、おそらく地方氏族の猛烈な運動があったのでしょうが、選定には大和朝廷の発展の歴史段階にも関わっている地域の神社が優先されていると見ることができます。

 また、讃岐の金比羅神宮、備前の吉備津彦神社、備後の吉備津神社、紀伊の熊野那智大社などの様に、当時明らかに存在していても式内社の選に漏れている神社が多くあります。式内社は当時から存在しており、朝廷からも重要視はされていた事は間違いありませんが、それ以外の神社でも由緒深い神社が多くありました。それを式外社と言います。

馬といえば、やはり先日記した楯六郎の佐久町館付近の騎馬牧場(私有牧場)が頭に浮かぶ。

新海三社神社が室町時代に現在重要文化財に登録されるほどの三重塔や社殿を建築できたのには、バックに相当の財力の存在が当然想像される。これが大井の庄の大井氏だったのか、伴野の庄の伴野氏だったのか?


参考:
新開大神宮 熊本県
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by newport8865 | 2006-01-29 11:36 | 地名 人名
木曾(源)義仲の重臣 根(々)井氏の館跡が佐久市岩村田の近郊、根々井の地にある。

根井氏館

地図はこれで、地図中の正法寺が館跡の一角を占める。この近在に、重文の駒形神社があるし、八幡(
やはた)宿に八幡神社と高良社がある。

参考:東御市 海野宿 白鳥神社

 馳せ参ずる者、地元滋野一族をはじめ、義仲の四天王樋口次郎兼光・今井四郎兼平・根井小弥太・楯六郎親忠の武将を中心に、信濃、西上州の将兵等約3千余騎が集結した。


佐久穂町(旧佐久町)大字海瀬字館(たて)に、根(々)井小弥太の子?楯六郎の館跡とされるものがある。

先に紹介した信濃源氏平賀氏の前に佐久地方を支配した豪族たちだ。「源平盛衰記」にその名前や活躍が記されている。木曽義仲の挙兵に従い、北陸道から平家を追い落とし、京を占領する主力軍となったという。(NHK 大河ドラマ「義経」では 根井行親、楯六郎とも登場したようだ。どのシーンに出たのだろう。気が付かなかった。義経との越後での遭遇のシーン? 倶利伽羅峠のシーン? 京都占領、宇治川の敗戦のシーンのいずれかだろうか?) 

義仲は京都占領後、後白河法皇に迫り「征夷大将軍」の院旨を受け「旭将軍」と通称されたが、その後従弟の義経に追討され、重臣ともども滅ぼされてしまった。滅亡後の信濃の地は大混乱だっただろう。恐らく鎌倉の頼朝は早速兵を入れ、戦後処理にあたらせたのだろうが、その戦後処理部隊が甲斐源氏の流れの平賀氏だったのだろうか?


参考:佐久町史 (これも「佐久の風はふるさとの風」さんのページ内の紹介。
このような市町村史は、郷土史家の方々の努力によって次々と発刊されているが、全国各地のそのような市町村史がが書籍として流通するだけでなく、ネット上にデータベースとして蓄積され、ネット検索できるようになれば歴史研究に相当役に立つものと思う。ネット上にこのように目次がテキストでアップロードされることにより容易に検索可能になるのだから、その効果は大きいだろう。いわゆる演繹的な研究ではなく、各郷土史の積み上げ的な帰納的な歴史像の形成が可能なのでは、などと妄想してしまう)

参考:木曽義仲の基礎知識(長野県出身の中学校社会科の先生を務めたことがある女性漫画家の方のページ)

参考:義経英雄伝というテレビゲームソフトにも「根井行親」や「楯六郎」が登場する。

木曽義仲史跡・伝説一覧

これら根井氏、楯氏の活躍、その後の平賀氏の鎌倉御家人としての隆盛(朝雅の将軍擁立騒動:牧の方の乱)など、中世の佐久の豪族が中央の政権の争奪に関与したということは、奈良・平安以来の官牧に由来する馬(つまり当時の有力な武器)の産地だったこと、またそれらの牧を管理するための組織がありを維持するだけの食料の生産力があったことを示すものなのだろう。


余談

なお、佐久のような田舎は古代以来天変地異は別としてそれほどの変化もなく推移してきたのではないかとつい想像してしまうのだが、平安・鎌倉時代だけをみても中央政界がらみの支配者の興亡はあるし、近世では、戦国時代には武田氏に蹂躙され、江戸時代にも大名の国替えが頻繁に行なわれるなど、庶民層の移転なども相当あったようだ。司馬遼太郎の「播磨灘物語」は黒田官兵衛を主人公とする歴史小説だが、黒田氏が播州で勃興するまでは、その父祖は近江からの流民で相当の苦労を重ねたという伝承を記している。中世、近世でも人々は天災・人災などでその土地で食えなくなると一家そろって他国に流浪してまで食い扶持を得ようとしたようだ。もちろん旅を職業とする遊行僧や行商人、放浪の旅芸人、職人など全国的に人々の移動交流は想像以上にあったのではなかろうか?

佐久にも有名な一遍上人が、遊行上人として何度も訪れているようだ。同行者たちがいた場合全国各地から上人のもとに参じて弟子となった人々ではないのだろうか?

鎌倉御家人の場合も、関東武士団の多くが全国各地に領地を得て、一族郎党と移住したようだ。神奈川の秦野市の毛利の庄を領地としてもらった大江広元(季光)の子孫が安芸の吉田に領地をもらって移り住んだものから後の毛利元就、長州の毛利氏が生まれたというし、またその一族は越後にも領地を持っており、そこにも毛利姓が残っているようだ。この例のように、御家人の領地はかなり全国に散らばっていたようで、同族のの領地間の交流もあったようだ。また転封によって一族郎党がそっくり移住することが多かったのだろうから、余計人々の交流範囲は広まったのではないか?

ちなみに、夏目漱石の遠祖は信州の夏目(なつめ)村(信州新町)から出たという。ここには「治武の子治貞は奥平氏に仕え、子孫は豊前中津藩の重臣となった。」とあり、夏目漱石の家系上の遠祖が、中津藩で福沢諭吉の先祖とともに働いていたということにもなるのだろう。

また福沢諭吉の先祖も辿れば信州だという(何かの小説 司馬遼太郎?で読んだ) 
ISBN4-434-05248-9. 信州と福沢諭吉. 丸山 信著 四六判 158頁 定価1100円.
福沢諭吉のルーツは信州にあった。諭吉建立の福沢氏記念碑冒頭に「福沢氏ノ先祖ハ信州
福沢ノ人ナリ…」と記した根拠を探る。 ...


長野県に「福沢氏」ゆかりの福泉寺という寺院があるようだ。(長野県埴科郡坂城町網掛49 飯綱山 福泉寺)

また、
福澤家は先祖を遡れば信州の出。 奥平が中津に入封するときについてきた。
という掲示板の記事もある。

福沢諭吉の祖先は・・・ (た)
2005-12-12 18:54:14

福沢諭吉は九州中津藩の下級武士の子供,と普通言われています。そのご先祖が茅野市の出身だったということをご存知ですか?
ビーナスライン(R152)のジャスコ(ビーナスライン茅野ショッピングセンター)のすぐ上を曲がって「前橋」を渡り,「福沢」地籍にはいります。すぐ右側に小さな公園がありそこに「福沢諭吉祖先発祥の地」(だったかな?文言が間違っているかもしれない)と書いた碑が建っています。その由来書きもあります。ぜひ一度ごらん下さい。d(^_^;)


「信州福沢考」についてのblogに詳しい。


著名人の「家系伝説」的な先祖探しでは、上記のような例があり、長野県と大分県中津など今でもほとんど無関係な土地の間に血縁的には面白いつながりがある例が多いのではなかろうか?

しかし、「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」の福沢諭吉にしてから、自分のルーツを求める衝動を抑えられなかったのだろうか?

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根井氏に関して秋田県のお寺の縁起に面白いエピソードがあった。信州から秋田に大勢移住したという伝承だ。

もっとも五郎満安の先祖は土着の人ではなかった。応仁の大乱がおこった元年の春三月信州から移住してきた。信濃源氏小笠原氏の一族である。由利郡五万八千石は、源頼朝の時代、由利仲八郎恒久というものが領有していた。平泉の藤原氏の族党である。子孫政春の代になって同族鳥海弥三郎の子孫に討たれ、鳥海氏は、鳥海氏はまた二人の家臣に殺され、今度は家臣同士があらそって共にほろび、貞治二年(1363)から応仁元年(1467)にいたる百余年間、由利には領主というものがなかった。住民は秋田、仙北、最上など諸地方の略奪をうけ、群盗が横行し田畑を耕す者がなく百戸二百戸あった部落も一、二に減ったり、村の名ばかり残る無人の原野に変わってしまったりした。それに目をつけたのが、鳥海山にやってきた旅の修験者である。木曽義仲の四天王の一人、根の井小弥太の子孫と称する者で、故郷の信州へ帰るとさっそく小笠原氏やその一族の大井氏と語らい、○北広野へ家従の者どもをひきつれ移住してきた。昔のこの地に、蝦夷をふせぐための由利の柵や秋田に出羽の柵を設けた時、越前、越後信濃、または上野、下野、から兵をつのって軍団をおき、あるいは諸国の民を入植させたことがあるように、戦乱時代の集団移住は、あながち珍しいことではなかったのかもしれない。


同じく秋田の土田家住宅

土田家の祖は木曽義仲の四天王の一人、根井小弥太行親の末えいと伝えられ

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by newport8865 | 2006-01-19 20:24 | 地名 人名

信濃源氏平賀氏

信濃源氏平賀氏・大内氏について という論文がネットで掲載されている。東大助教授本郷和人氏によるもの。

『松本市史研究』10号 00.3(分類A)
ずっと関心を持っていた平賀・大内氏についての最終言及です。平賀郷と伴野庄、平賀氏と伴野氏、そして小笠原氏の「七カ国管領」。このへんの推論の流れは我ながら見事。すごいぞオレ。とか思って「鏡の会」で発表したら、五味センセイに「ふうん。妄想じゃないのお」と言われてしまいました。ちゃんちゃん。
 との自己解説あり。

平賀城跡

 
井原今朝男 「信濃の鎌倉指向」
(『長野県の歴史』.山川出版社.1997年.p86以下)


 
元久二(一二〇五)年、時政は老臣畠山重忠〔1164~1205.42歳〕を討ったあと、妻牧の方とはかって将軍実朝〔1192~1219.28歳〕を殺害し、平賀朝雅を将軍職につけようとし逆に処罰された。平賀朝雅らは京都で討ちとられ、大内惟信らも幕政から排除された。捧荘や岡田郷なども没収され守護領となり、平賀源氏一門は信濃から姿を消し、わずかに越後国金津保(新潟県新津市)に小野時信や平賀資義(すけよし)の所領が知られるにすぎない。


日本苗字7000傑 清和源氏義光流

によると、新羅】義光─【平賀】盛義-義信(信濃源氏論文にも名前が出ている) その兄有義から【平賀氏】【金津氏】【木津氏】【新津氏】【金沢氏】が出ている。義信の子が朝雅(政)で牧の方の乱に巻き込まれる。

◆このうち 新津氏は、現在でも佐久地方に見られる苗字である。

戦国武将列伝の甲信越/北陸  には、新津氏が見られる。
佐久の平賀氏からの流れだということはここにも書かれている。牧の方の乱以前に、平賀盛義の子有義が新津市に所領を与えられていたのであろうか。そこを根拠として新津氏が戦国武将として上杉謙信の傘下で活躍したのであろう。

上杉謙信の家臣団に 新津勝資(かつすけ)の名前が見える。


上杉家臣団というページには、新津氏が旧信濃国人、国人衆(新津資相)、信濃源氏に分類されて出ている。

米沢にある 新津左近と言う人物のお墓が出ている (米沢上杉祭り関連) 米沢の林泉寺にあるようだ。新津城主だったとのこと。これが、上杉景勝の会津、米沢移封に従った新津氏だろう。

◆また、武田 家臣 新津 でgoogle 検索したところ、 もと上杉家の家臣だった新津右京の子が日向家に婿入りして武田家に仕えたという記事が多くあり。

日向虎顕(昌時の婿、新津右京の子、玄東斎) : 武田家臣団


これについて調べると、武田氏 は行

日向宋立(?~1608)

玄東斎。もと越後上杉氏の家臣・新津右京の子。

日向是吉の妹婿となり、武田氏に仕えた。

関東および越前、比叡山への使者を務めた。

武田滅亡後は徳川家康に仕えた。

1608年、死去。
とある。

これが旗本日向家の祖であろう。

徳川旗本八万騎の家紋 の ひ の欄には、

日向家 石持地抜違い鷹の羽
もと新津氏を称していたことから、越後新津氏と関係がありそうだが、頼光流小笠原氏の族と称する。代々、武田家に仕え、もと「松皮菱」を用いたが、政成が家康麾下に入る前、父東斎のころから「違い鷹の羽」を前面に押し出した。
とある。

なお、山梨県の新津姓の方のページに、越後上杉家家臣だった新津右京の子どもについての家系説話的な歴史が書かれている。

柏屋の歴史

現在わかっている柏屋の当主は、左記の通りです。 新津の姓は、武田信玄の時代、駿河の今川義元に塩の供給を止められた(現在で言う経済封鎖的なもの)とき、越後の上杉謙信が武田信玄に塩を送った美談がありますが、このとき信濃より塩の引渡しに参加した武将(上杉家臣新津右京の子供)で、その功績により武田信玄から巨摩郡落合の領土を頂き、落合に移り住んだと言われています。
これは、日向宋立その人かその兄弟のことではなかろうか?

佐久にある新津姓が、越後の新津氏と何らかの関わりがあるとすれば、「このとき信濃より塩の引渡しに参加した武将(上杉家臣新津右京の子供)」とあるのがそうだろうか?平賀氏の裔の新津氏が越後から信濃の佐久に一部戻っていたのだろうか?
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by newport8865 | 2006-01-17 20:08 | 地名 人名
明けましておめでとうございます。

佐久でgoogleしたところ見つかりました。

ホームページはこれです。

滋賀の大津というかつて都のあった場所であり、非常に古い神社のようです。その由緒に「この地は八張口、桜谷と呼ばれ『山岳裂けて低下の所を開くところがその名の由来であると社記に記されております。』」で、「裂く」に「佐久」という美名をあてたことが想像されます。
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by newport8865 | 2006-01-05 19:09 | 地名 人名
googleでの佐久神社の検索結果はこれです。

佐久神社は、甲斐の神社/山梨県の神社には、石和町と中道町にあるようです。いずれも湖水だった甲府盆地を開鑿したという縁起があるようで、「裂く、割く」に通じるのでしょうか?歌語り風土記 山梨に 蹴裂明神という名前で出ています。石和(現、笛吹市)の佐久神社は甲斐の国を開闢した神が祭られているようです。甲斐の国の中心を示す要石があることで知られているようです。

開拓神が祭られているということでは、信州佐久の新海三社神社も新開に通じて、開鑿と関係があると言われることとつながりがありそうです。

延喜式神名帳にも「佐久神社」が見えます。

なお、長野県の佐久の「新海三社神社」も別名「佐久神社」というようです。

佐久津彦のミコトについては、但馬の佐久神社の祭神以外には名前が見えません。

また、静岡清水の三保にも佐久神社があるようです。


中部地方の佐久神社の地理的な位置をつなげてみると、佐久神社は、例の糸魚川静岡構造線、フォッサ・マグナ、大地溝帯に沿ってあるのではないかという想像が働きます。大地の裂け目、フォッサマグナ、裂け目=裂く=美称で「佐久」という説はどうでしょうか?


面白い記述がありました。ミシヤグチ神、御社宮司社、御射山社、社宮社の一覧

あまり関係がなさそうですが、佐佐久神社という神社が四国は愛媛県の西条市にあるようです。

なお、北海道の佐久の地にも佐久神社があるということです。
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by newport8865 | 2005-12-12 20:22 | 地名 人名
たまたま佐久地方の式内社をgoogleで調べていたところ、思いがけず但馬の国 式内社一覧に、佐久神社があることが分かった。

佐久神社(佐久大明神) 日高町佐田  祭神:手力男神、また佐久津彦命、配祇:木花咲耶姫

但馬とは兵庫県北部。鷹野神社というものもあった。鷹野姓は、小海町方面に多い。

佐久津彦のミコトとはどういう神であろうか?
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by newport8865 | 2005-12-12 19:42 | 地名 人名

佐久という地名の語源

佐久という地名の語源はいろいろな説があるが、通説はないようだ。

下記のように神話に使われていることから、恐らく「佐久」は「開」(さく)と同じ意味で、咲く・割く・裂くに通じる古い言葉なのだろうと思う。

このはなのさくや‐びめ【木花開耶姫・木花之佐久夜毘売】 大山祇神(おおやまつみのかみ)の娘。磐長姫(いわながひめ)の妹。美しい容姿を天孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に好まれてその妃となり、火酢芹命(ほのすせりのみこと)、火明命(ほのあかりのみこと)、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)を生む。神吾田鹿葦津姫(かんあたかしつひめ)。神阿多都比売(かんあたつひめ)。(Kokugo Dai Jiten Dictionary. Shinsou-ban (Revised edition) ゥ Shogakukan 1988/国語大辞典(新装版)ゥ小学館 1988)

東北日本に住んでいた蝦夷(エミシ、アイヌ、縄文系日本人、まつろわぬものども)を弥生系日本人が「退治」したことが、中央の歴史(支配者側の公的な歴史)に留められているが、そのときの前進基地である砦を、「柵」といい、そこから佐久となったのではないかという推測が述べられているが、少々後世の「かねざわのき(かねざは‥)【金沢柵】」後三年の役の時、出羽の豪族清原氏が拠った城柵。秋田県横手市金沢にあったとされる。かなざわのき。(Kokugo Dai Jiten Dictionary. Shinsou-ban (Revised edition) ゥ Shogakukan 1988/国語大辞典(新装版)ゥ小学館 1988)は、柵を「き」と読ませていることから、柵=佐久説は弱いのではなかろうか?

(半可通の知識の羅列なので、この項も今後考察を深めていきたい)

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なお、ヤマトタケルの熊襲退治の神話にもあるように、縄文系日本人は九州地方でも勢力を張っていたのだろう。現在、沖縄県に以前から住む人々と北海道のアイヌの人々の遺伝の調査によると、非常に近しいということだから、佐久も含まれる中央高地でも繁栄した縄文系日本人が次第に中央部に勢力を張った弥生系の人々に周縁部に追いやられたのだろう。

「佐久 地名」で検索したら、佐久関係の素晴らしいサイトがあった。「佐久の風はふるさとの風」
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by newport8865 | 2005-11-17 20:02 | 地名 人名
佐久という地名の由縁には定説がないようだが、長野県の佐久地方以外にも佐久が含まれる地名が散在している。その一つが、北海道のJR宗谷本線の佐久駅だ。

現在では、駅すぱーとなどの路線探索ソフトを使えば、佐久が含まれる駅名を容易に検索できるし、インターネットで検索すれば佐久に関するネット情報を検索が可能だが、かつては全国範囲で似た小地名を探すのは至難のわざだった。

この北海道の佐久駅は、いまから10年以上も前、北海道に列車旅行に行った際に、札幌から稚内に列車で向う途中、時刻表を眺めていたら、懐かしい地名が出てきて、列車で通過する際に写真を撮影した。北海道の内陸地方の周囲を森林に囲まれ、近くを谷川が流れるような、ちょうど佐久の山中のような場所だった。

その後、googleで、宗谷線の記事を発見した。佐久駅についても触れられている。


佐久はアイヌ語のサクコタンナイからきていて、サク・コタン・ナイ(夏の・村・川)で夏に生活する集落のある川だったことから名付けられている。


と興味深いことが書かれていた。もしかしたら、佐久地方から北海道へ開拓に行った人たちが名づけた名前かも知れないと想像していたのだが。父親の遠い縁者に北海道へ移住した人がいたらしいと、聞いたことがあるので。
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by newport8865 | 2005-11-15 20:38 | 地名 人名