ふるさと佐久


by newport8865
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カテゴリ:神話 伝説 昔話( 8 )

『風林火山』のドラマには、井上靖の原作よりも詳しく、武田信玄による信濃侵攻が詳しく描かれている。

ドラマの主人公が山本勘助で、大団円が第5次?川中島の戦いの『鞭声粛々』での激戦と勘助の討ち死にに設定されているのだろうから、それゆえその後の信玄の西上作戦の頓挫は描かれないのだろうから、それまでのエピソードを細かく描くことになるのだろう。

佐久出身者としては、地元の地名や地元の武将たちやが多く登場するのは興味深いが、佐久の特に志賀城(城主 笠原氏)、内山城などが武田に持続的に歯向かうことの見せしめのための大虐殺にあったり、捕虜が武田の黒川金山に連行されたという新田次郎『武田信玄』の記述を想起すると、画面をみながら慄然とすることがある。

武田の支配の後、織田、徳川と支配者は代わったが、それでもその時代時代の先祖たちが何とか生き延びていてくれたからこそ、今の自分があるのだと思う。ドラマを見ながら、自分の先祖たち(450年ほど前なので、20世代以上前になるため、単純計算では2の20乗という膨大な数の先祖の延べ人数になるのだが実際は重複があるだろうからもっと少ないとは思う)はその時代、どこでどうしていたのかという感慨を持つことがある。

ところで、私の父の実家の墓地の裏山には、武田の「狼煙台」だったという言い伝えが残されている。地元の人たちの慣用的な呼び名だったかも知れない。そこは、近年地元の自治体によって公園として整備され、小規模の城(砦)跡として以前とは違うまったく明るい雰囲気の場所になっているが、私が子ども時代に祖父やおじ、おば、いとこたちに会いに何度も遊びに行った頃は、伯父や従兄もその小山の頂上方面には連れて行ってくれたことはなかったように思う。先に述べたような城跡や狼煙台跡ということが伝承されているため、少々不気味な雰囲気もあった。

この城(砦)跡の城主などは、地元の旧家の家系図や古文書からおよそのことがわかっているようだが、甲斐と信濃北部(川中島)を結ぶ狼煙台として使われたというはっきりとした史料は見つかっているのだろうか?もし見つかっていないとしてもそれが、自分の父の生家にはそのように昔話(伝承)として残っているというのは、史料だけでは歴史は記述できないということの一面の証拠であるようにも思われる。

さて、ドラマに登場する佐久から長久保にかけての大井(一族)、相木(市兵衛)、望月などは今でも地名として残されているが、諏訪や大井の残党と一緒に小諸の布引城にこもったという額岩寺(がくがんじ)という武将は僧侶の出だったのだろうが、稀な姓として印象に残っている。、どのような勢力だったのだろうか? 

p.s. 佐久平からみた風林火山 というページを見つけた。
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by newport8865 | 2007-06-07 20:09 | 神話 伝説 昔話
2006年12月21日に、沖縄を舞台にした『メタボラ』(桐野夏生)が途中で放り出すような形で突然終結し、いきなりタイトルの小説が開始された。

これは、このblog でも取り上げた中沢新一「精霊の王」の冒頭をそのまま借りたような始まりになっている。

序章からして『精霊の王』である。

平安朝? 少年貴族が蹴鞠の練習をする場面から始まる。

どのような展開をするのか?

この作者の場合、猟奇的な時代ものだろうということは予想がつくが。


p.s. 2006/12/25 この小説と『精霊の王』との関係を知りたくてyahoo blog検索したところ、助走「精霊の王」が見つかり、トラックバックさせてもらった。

読み逃していたが、この連載が始まる前に、当の中沢新一と夢枕獏の対談が掲載されていたようで、その記事を見つけた。 西行法師が主人公になるのだろうか?
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by newport8865 | 2006-12-24 13:19 | 神話 伝説 昔話

蛙文様が象徴するもの

縄文土器の蛙文様が何を象徴するかについて、ネットで検索してみたが、明確な答えは見つからなかった。ただ、「精霊の王」で紹介されている山梨県の旧・須玉町所蔵の土器には、(出産土器)と注意書きがされていた。

◆井戸尻考古館
半人半蛙文有孔鍔付樽 国重要文化財 藤内遺跡 高さ51㎝
・・・それに紡錘形の蛙の背には、女性器の意味が重ねられているようでもある。・・・
そして、このような関係を縄文中期の土器文様と対比すれば、蛙文は同じように月の不死性を象徴していると判断でき、新しい命を産む女性の出産力は豊穣の象徴と考えられていたようだ。月と蛙と女性の複合からなる太陰的思想は、新石器農耕文化に特徴的な世界観であったと解釈される。


日本人はるかな旅展(国立科学博物館) 2001年9月の展覧会 

縄文時代の精霊たち 縄文人は、クマ、イノシシ、マムシ、カエル、オオサンショウウオ、ヒトなどの姿を土器にあらわし、また女性の土偶を作りました。これらは彼らの生活にとって重要なものを象徴していました。縄文人は、自然を森、山、土地、水、川などに分類し、それぞれに持ち主である精霊がいると信じて、信仰の対象にしていたようです。土器にあらわしたものは、祭りのさいに土器の中にいれた供え物を奉る対象であり、土偶は祈りを捧げる祖霊だったのでしょう。

◆カエルをあらわした土器 4000年前(中期) 千葉県ユルギ松 船橋市飛ノ台史跡博物館蔵



縄文土器の神秘 これは、先日紹介した「ブナ林と縄文文化」のサイト内の土器の解説(梅原猛?)


茅野市の中ッ原遺跡で大型仮面土偶が出土 女性をかたどったもの

縄文文化の超自然観 よくまとまっている
 元サイトは、明治大学の人類学のホームページだった。

人面把手付土器

■顔面把手付土器ともいう。深鉢のふちに、同時代の土偶と同じような顔がついている。
■人面把手付土器も意図的に壊されたようにばらばらになっていることが多く、土偶と似たような機能を持っていた可能性がある。


縄文の地霊

ミミヅク把手付深鉢と御所前人面深鉢との相同性からのテーマ解読
■著者紹介:西宮紘 (にしのみや・こう)


土器土偶 ホームページはこれ


把手付き縄文土器の人面把手
岐阜県高山市の小学校のサイト カエルの後脚部らしい模様とその間から人面が覗いているように見える。

富山の人面付き土器の破片 

八ヶ岳南麓の縄文土器 ムービーが見られるようだ


人面把手付深鉢 「精霊の王」で紹介された旧・須玉町の有名なもの 津金御所前遺跡出土 縄文中期 出産土器との注が記されていた!
表の胴部の両面と土器上部にある突出部の裏の3ヶ所に顔面があります。胴部にある顔面(人面)から足のような隆線が2本垂れているのが出産を表したものと考えられます。そして、突出部表にある一対の渦巻き文様は出産時の母親の苦しみの表情を表しているのではないかと言われています。
 破壊された状態で出土したものを復元したもの。


横浜市 栄区 公田町から出た縄文中期の土器の人面の取っ手は、関東地方最大のもの 横浜市立歴史博物館のパネルによると関東の土器は中部山岳の土器の影響を受けているようだ。

井戸尻考古館 図像が多いまとまったページ

尖石考古館 オフィシャルページとしては不満

大深山遺跡 おおみやまいせき 川上村の大深山遺跡からの出土品は、古い考古館から文化センターに移されているようだが、オフィシャルサイトがないのは残念だ。是非作成してほしい。


◆佐久地方の縄文遺跡について調べたが、ネット上には概観できる地図はないようだ。

■群馬県富岡の南蛇井増光寺遺跡(なんじゃいぞうこうじいせき) 佐久と群馬との影響関係がみられるようだ

長野県の佐久地方では栗林式土器を出自とする櫛描横羽状文、斜走文が吉田式の主文様として盛行し、途切れることなく後期の新しい段階まで継承され、古墳出現期に終焉を迎える。これらは、信州の他地域では見られず、佐久地方の地域的特色となっている。これらの点を考慮すると本遺跡と佐久地方との深いつながりが想像される。


狭山丘陵の遺跡 ここでも「佐久地方」への言及があり。

②中部山岳ルート 
 『一方で、同じ時期に中部山岳ルートをたどった結果、北関東や佐久地方で発達した土器が秩父市・藪(やぶ)遺跡(埼玉考古学会『埼玉県土器集成4』。一九七六)や町田市・椙山(すぎやま)神社北遺跡(椙山神社北遺跡調査会『椙山神社北遺跡』・一九八一)でも見つかっており、多摩地方の西端がこのルートの影響をも受けていたことも明らかになっている。』
 (以上、青梅市史 上 P146~167)



■北相木村の入口に近い縄文早期の栃原洞穴遺跡(有名な相木人)

佐久の遺跡について リンクを張らせてもらっている「佐久考古学会」の会報

■佐久の人面土器
宮平の人面土器  (北佐久郡 御代田町) 
愛称:あくびちゃん
 あまり人面がはっきりはしていないようだ。

「古代史」 (塚田敬章さん)のページで、佐久について論考しているものが見つかった。滑津川についても言及されている。水草の豊富な川だったが。

http://boat.zero.ad.jp/~zaw10107/5/kika_3.htm

「シャク」は容易に「サク」に転ずるでしょう。「シャクジン」、「シャゴジ」、「佐久神」という正体不明の古い信仰がありますが、これも呉・楚人の祭る鯰神と考えれば謎が解けそうです。


佐久町商工会のページ 旧・佐久町の石棒など ツアーができるようだ。

浅間縄文ミュージアム  御代田町のメルシャン美術館に併設されているようだ。国の重文の焼町土器(御代田町川原田遺跡出土)もあり。相当活発に活動している博物館のようだ。近くを通りかかったことがあったが、まだ入館したことがない。町のホームページには町の関連施設として紹介されていた。

遺跡関係のリンク集 北相木の博物館も紹介されている。
ここに立派な博物館があるのだから、川上村も馬場平遺跡、大深山遺跡など重要な遺跡博物館をぜひ建ててほしいものだ。


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なお、我が家にある土製の人面は佐久地方の出土のものだ。家族の中では、一見して非常に稚拙な造型なので子どもの粘土細工のようだと話していたのだが、表面採取のできる場所にあったことや人面把手付土器の図像を見てみると、これらの人面把手の一部だという可能性はかなりあるかもかも知れない。 今度確認してみたい。
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by newport8865 | 2006-01-27 20:00 | 神話 伝説 昔話
「新海神社は延喜式内社ではなかったが・・・」という記事を先日書いたが、その中で ミシャグチ、ミサグチ神について宗教学者の中沢新一の著書「精霊の王」が扱っているのをネットで知ったことを書いた。

割と最近の出版なので何軒か書店を探したところようやく購入できたので読んでみた。装丁として中表紙にフランス語の "roi (王) du 何とかかんとか" というページをいれているのは、学者ながらペダンティックなことをするものだと、下世話なことが気になった。

非常に難解な本なので、理解がいきとどかないところが多いのだが、印象に残ったことを順不同であげていくと、能(猿楽)の金春禅竹(こんぱるぜんちく)の昭和30年代に発見された遺文に書かれている「翁は宿神である」という記述から多くのことがインスパイアされているようだ。

ミシャグチ、ミサグチ、「佐久」に関しては、「佐久」という文字がミシャグチ神の当て字ということは柳田国男の研究として出てきたが、地名「佐久」については直接的にはまったく触れられてはいなかった。

柳田国男(長野の飯田出身の柳田家の養子となり飯田に縁がある)、藤森栄一、今井野菊という諏訪のミシャグチ神の研究の系譜があるようだ。諏訪湖周辺の、ミシャグチ信仰の跡に奉納されていた扇と「胎衣」(えな)からの連想が興味深かった。
参考:文化財人名事典 柳田国男
筆名は赤松国祐・松男・川村杳樹・久米長目、俳号は柳叟(リュウソウ)、旧姓は松岡。長野県飯田(イイダ)出身の大審院判事柳田直平の養子となる。


飯田市美術館 柳田國男館 : 以前、飯田出身の菱田春草の日本画が見られるかと飯田市美術館に訪れたことがあった。春草の作品は常設展示されていなかったが、この記念館や日夏耿之介記念館を見る事ができて興味深かった。

中世史に新たな光をあてたとされる歴史学者の網野善彦が義理の叔父(叔母の夫)だったというが、その影響も深いようだ。

(不勉強で週刊誌や新聞の書評などで網野善彦の名前を知る程度なのだが、Wikipedia などで網野善彦の著書リストを見ると、自分が1970年代の高校生のとき、士農工商と言うが、「漁民」はどの身分に入っていたのかを日本史の先生に質問した際に、明確な答えをもらえなかったのだが、この網野氏の著書が少しでも出ていたならと思う。その多くが1990年代の出版だからやむをえない。そこから思えば自分の関心の持ち方も捨てたものではなかったのかも知れない。)

これなどは、隆慶一郎の傀儡子の一族や、東日本・西日本の差異(東海道では浜名湖付近が方言・風俗習慣の境らしい)、またこの「精霊の王」で言及されている東西日本のミシャグチ信仰の差異につながるものだろう。
岩波セミナーブックス
『忘れられた日本人』を読む
著 : 網野善彦
内容説明
宮本常一の「忘れられた日本人」を読み解き、歴史の中の老人・女性・子ども・遍歴民の役割や東日本と西日本との間の大きな差異に着目したその先駆性を明らかにする。1999年に岩波書店で行われた講座の記録を単行本化。


サ行+カ行の単語が、日本語の中で特別の意味を持ち、その中に「サク」も入る。サカ、シュクが特別の意味を持つという。渡来人秦氏の家系伝説、芸能史、西日本と東日本では「ミシャグチ信仰」の様相が大きく異なっていることなど。坂、夙という言葉。(夙谷といえば、白土三平の「カムイ伝」に出てくる地名。また、最近読んだ隆慶一郎「捨て童子 松平忠輝」の傀儡子、山窩の民のことも思い浮かんだ。)

この論考のオリジナルは雑誌「群像」(講談社)に発表された一般向けの記事であるためか実証性や精緻な推論などを端折っているようで、どうしてそのように推論されるのか、いわゆる「納得」「理解」しがたい部分もあり、また「クラインの壺」の比喩など位相幾何学についての知識が必要だと思われる難解な部分もあり、論考全体としては五里夢中の理解しかできていない。古代国家の成立、天皇制と差別の問題などにも言及されているが、まだまだ理解が及ばない。(この書籍の背景に多くの引用文献、その他著者の自著があり、それらが前提になっているのだろうし。)

ミシャグチ神のような古代人の精神活動を、考古学、民俗学、宗教学、神話学、歴史学的な手がかりを元に現代によみがえらそうとする試みというか方向性くらいしか理解は及ばないが、自分にとってもなかなか面白いものだと思う。

最近、このblogのように地方史や民俗学的なことに再び関心が戻ってきて、そういえばと考えると、高校生のころ柳田国男の「遠野物語」などに熱中したことを思い出す。もともと民俗学は趣味的に興味があった。また、学生時代に教員免許を取得する際に、中学校で教育実習を行い、社会科の研修授業で縄文時代を扱ったのだが、その際、縄文時代の人々の暮らしを知るよすがとして、石器、土器、住居跡のほかに、ごみ捨て場である貝塚、トイレの跡に残された糞石、お墓、土偶など精神生活の窺がわれるものなどがあると、半可通のわかったような授業をしたことがあったのだが、概説書で得た知識を他人に教えた経験でもそれなりに脳裡に焼きついている。

「精霊の王」の口絵に、長野県諏訪郡原村や北巨摩郡須玉町(現、北杜市。地名破壊もひどいものだ。)出土の人面(嬰児の頭部だという)のついた瓜二つの縄文土器が出ているが、その人面に似たものが、父が表面採取で採集した縄文土器の中にあるのだ。この土器は、蛙(女性器を象徴するとされる?)から胎児が顔を出していることを示すのだというのだが・・・。(文様の象徴性だが、人の嬰児はそのまま写実的に描き、生殖器を蛙文様で象徴させるという差異はどうして生じたものだろう?むしろそのような作為的な差異がない方が自然だと思うのだが。要するに蛙は象徴ではないのではないか?)

縄文土器の図像を検索していたら、「ブナ林と古代史」という面白いページがあった。

父の蔵書にも「日本人はどこからきたのか」という主題の書籍や、梅原猛全集なども実家には鎮座している。結構関心があるようだ。

私などは生来のグズで、ズクなしで、フィールドワークのような地道な作業にはほとんど興味もなく経験もない。博物館に整理・復元された展示品や解読され、印刷された文書を読む程度のまったくのディレッタントではあるが、自分のはるかかなたの祖先たちの痕跡をたどるというのはなぜか非常に魅力的ではある。

ネットで見つけた「精霊の王」関係の書評 (書評自体非常に難解なのだが)。

「人文レジ前」

情報考学

不連続な読書日記

中沢真一「対称性人類学」について(松岡正剛の千夜千冊)

世阿弥と金春禅竹――『精霊の王』を読んで―― 松岡心平


また、googleでヒットした新・網上戯論は今はリンクが切れているが、キャッシュで読むと興味深い議論が書かれている。実証性の点だ。
ウソの論拠 悪党 - 2004/12/24(Fri) 17:38 No.3242

>後鳥羽院さん

中沢新一『精霊の王』はどの書評を読んでも全て褒めていますが、どんなもんでしょう。
宿神が縄文から続く信仰としていますが、星の信仰に関係する宿と来れば普通は星宿を思い浮かべるのではないでしょうか。ならば、道教と関わる中国思想の影響を排除しきれないはずです。また、これに関連して宿曜道や陰陽道の問題も避けて通れないはずです。にもかかわらず、中沢氏は一言も触れていないんですよね。縄文から続く信仰であると、どの様にすれば論証できるのでしょうか?
最悪なのは、秦河勝伝説に触れたところです。金春禅竹の『明宿集』に載っている話を、世阿弥が『風姿花伝』で取り上げているとし、その理由が世阿弥が娘婿であった禅竹から聞いて知っていたからだとしているのです。
禅竹の生年は1405年と言われています。一方『風姿花伝』はその成立は何段階かあると言われていますが、秦河勝伝説が触れられているのは第四編です。これは応永九年(1402)年の奥書がある訳で、まだ生まれていないはずの禅竹からどうやって河勝の話を聞いて書いたのでしょう?
『悪党的思考』もそうでしたが、基本的な史料批判すら出来ないで、いい加減なことを書き散らしているのに、どうしてみんな褒めるのか、私には理解できません。

引用 http://www.furugosho.com/accueil.htm 内の http://www.furugosho.com/cgi-bin/bbs/yybbs.cgi?page=15 のようなやり取りが見つかった。
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by newport8865 | 2006-01-25 20:32 | 神話 伝説 昔話

伝説の「佐久地穴」?

佐倉本情報 
また、深い湿地に人が落ちたら上がれない深い穴がありました。私は、思わず伝説の「佐久地穴」かと思いました。印旛沼には、昔、大きな穴がいくつかあり、水を噴き上げていたというのです。その名残の穴かと思いましたが、そこまで深読みの必要なありませんでした。単なる古井戸という設定でした。

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by newport8865 | 2006-01-25 19:38 | 神話 伝説 昔話
新海三社神社の主神 おきはぎのみこと を googleで調べてみたところいくつか興味深いサイトがみつかった。

◆八千穂(佐久穂町)でセミナーを開いている方の面白いサイトがあった。
日本地震予知協会Webサイト ~雲にきこうよ~以下、神名の漢字表記は原則としてこれによる)の子興波岐命(オキハギノミコト)が
建てたという新海神社に残っている。このように諏訪神社と深いつながりがある新海神社
からは、旧暦の正月頃に蓼科山頂に日が沈むのが見られる。 ...

◆このページは普通の旅行記かと思っていたが、「直さんの『中央構造線と古代史を考える』という壮大な仮説ページのうちの一ページだった。
新海三社神社佐久の新海三社神社は、佐久地方を開拓したといわれるオキハギノミコトを主祭神と
してまつっている。 オキハギノミコトは諏訪神社に祀られるタケミナカタの子供である。
タケミナカタは、オオクニヌシノミコトの子供で、天孫族の出雲の国譲りの争いに抵抗 ...

古代鉄関連の地名 その1 には 砂鉄に関係のある地名として 「須坂」、ダイダラボッチが産鉄関連の民話とされている。

また、佐久の茂来山(もらいさん)については、「茂来山(モライサン)鉄山遺跡 : 江戸時代に経営された製鉄跡」として紹介されており、諏訪の守屋山(モリヤ、モレア、守屋、守谷、守矢)を想起するという示唆的な記述があった。モライサンは、蓬莱山(ほうらいさん)に似ている山名くらいに思っていたのだが、モリヤの当て字という指摘はなるほどと思う。

文明・技術の主要な要素である道具:石器(縄文時代の黒曜石の産地は諏訪に近い和田峠の星糞遺跡など!)から、金属器への進歩・伝搬と、古代の神々の征服・被征服神話・伝承には確かに何らかのつながりがあるだろう。出雲の荒神谷から大量に出土した銅剣。その後の製鉄によるより優れた道具である鉄器。狩猟採集経済よりも定住農耕経済の方が人々の生存に有利という判断はあったのだろうが、優れた道具・武器を持つ人々により、劣った武器を持つ人々が侵略・吸収・追放されたという歴史でもあるだろう。

諏訪神話は次のように解釈することも可能だろうか?
モレヤ神(ミサグチ神)を奉ずる縄文系の石器を道具としていた狩猟・採集のグループが古くから諏訪の地に住んでいた。諏訪湖の後背地である八ヶ岳の西南麓の豊富な縄文遺跡群。和田峠の黒曜石。

その人々が、出雲・安曇系?の銅器を用いるプレ弥生系?農耕グループ(タケミナカタノミコト、オキハギノミコトなどがシンボル)に侵略・吸収され、この農耕グループが大きな勢力を持ち、周囲の地方(佐久も含む)を侵略・吸収していった。

そこに、いわゆる天孫系の鉄器を用いる弥生系の水田農耕グループが九州、畿内から勢力を伸ばし、ついに出雲・安曇系の諏訪の勢力と衝突し吸収。鎮魂のために諏訪神社に前勢力のシンボルであるタケミナカタノミコトなどを祀った。前代の勢力は、荒ぶる神として祀らなければたたりをなすものとして神鎮め儀式を行なったのではなかろうか?ただし、古いモレヤ神信仰も消滅せずに継承され、それが諏訪大社に残る、御柱の祭儀として今に伝わっているのではなかろうか?


ところで、オキハギノミコトが佐久の「開拓神」とされているということは、農耕技術の伝承者ということにもなるだろう。佐久は、600mから1000mにいたる高地ではあるが、千曲川の沖積地で、水利も比較的よいため、相当古い時代から土地を開拓し畑や水田が開かれていたのではないかと思われる。新海三社神社も諏訪大社とパラレルで、先にミサクチ神が祭られ、その後オキハギノミコトをシンボルとするグループにより農耕がもたらされ、その後やは天孫系のグループにより水田農耕がもたらされ、オキハギノミコトグループを神社に祀ったということかと思われる。

新海神社の謎長野郷土史研究会機関誌
「長野」第211号(2000年5月) (500円)在庫あり 注文のページ

西本願寺坊官下間少進家伝来の善光寺如来分身仏・・・・・・・北川 央
松代藩山中代かき馬と領内牛馬数・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・古川 貞雄
善光寺歩行役一件・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・仁科 叔子
善光寺式刀印について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・福島 貴和
続「古犀川」の記・・・仁和三年の大地震・・・・・・・・・・・・・・・・・・池田 三夫
新海神社の謎・・・その創建・興波岐命・東本殿について・・・・市川 武治
桑原のあたけ人形・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・堀内 暉巳
小諸牧野侯の系譜・・・五代将軍綱吉に関わって・・・・・・・・・・・翠川 渡
善光寺式黄金仏・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・小林 計一郎
日本木地師学会について・・・研究と実践・・・・・・・・・・・・・・・・・楯 英雄
ピカドン爆弾と金鵄・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・関川 喜一郎
絵で読む平家物語(18)
・・・六ヶ度軍・三草勢揃・三草合戦・老馬・一二之懸・二度之懸・坂落・・・小林 一郎・小林 玲子
(口絵)善光寺式黄金仏
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by newport8865 | 2006-01-12 20:10 | 神話 伝説 昔話
諏訪大社の主祭神 たけみなかたのみこと を GOOGLEで検索した。

中央構造線と関係づけた面白いサイトを発見した。
アンバマイカHome>遠山郷事典>中央構造線とは>(2)タケミナカタ・ロード

 
本居宣長は、阿波国に名方郡名方郷があり、そこに多祁御奈刀弥(タケミナトミ)神社があることを指摘しています。建御名方命は建御名方富命(タケミナカタトミノミコト)とも呼ばれていますから、建御名方の名は阿波国名方に由来するのではないか、という主張です。
 多祁御奈刀弥神社は現在も名西郡石井町に現存し、建御名方命と、その妻の八坂刀売命を祀っています。石井町は吉野川の南岸にあり、この吉野川に沿って中央構造線が走っているのです。


本居宣長の「古事記伝」が重要であるようだ。

記念館のホームページはここ

なお、建御名方命 は 訓み方は、「たけみなかたのみこと」 が正しいようだが、ネットでは 「たてみなかたのみこと」と訓む例が非常に多い。猛々しいという意味で「たけ」という名前らしいが、それなら「武」の字や「猛」の字の方が適当だと思う。このみことのライバル「たけみかずちのかみ」のたけも「建」を当てている。


たけみなかたのかみ【建御名方神】
日本神話の男神。大国主命の子。天照大神の使いの建御雷神の命に服さず力くらべをしたが負け、信濃国(長野県)諏訪湖まで逃れ、同地に鎮まったという。
Kokugo Dai Jiten Dictionary. Shinsou-ban (Revised edition) ゥ Shogakukan 1988/国語大辞典(新装版)ゥ小学館 1988


参考:
たけみなかたとみのみことひこがみわけじんじゃ【健御名方富命彦神別神社】
長野市城山にある旧県社。祭神は健御名方富命、彦神別命。上古、現在の善光寺の所に創立。持統天皇五年諏訪大社とともに勅祭が行われたが、善光寺に吸収されて年神堂として存続、明治一二年現在地に再興。水内大社。

たけみくまりじんじゃ【武水別神社】
長野県更埴市八幡にある旧県社。祭神は武水別神ほか。

たけみくまりじんじゃ【建水分神社】
大阪府南河内郡千早赤阪村にある旧府社。祭神は天御中主命ほか。

たけみかずちのかみ(たけみかづち‥)【建御雷神・武甕槌神】
日本神話の男神。天照大神の命を受けて出雲に降り、事代主神・建御名方神を服従させ、大国主命に国譲りをさせた神。神武東征のとき、霊剣を天皇に献上したともされる。

Kokugo Dai Jiten Dictionary. Shinsou-ban (Revised edition) ゥ Shogakukan 1988/国語大辞典(新装版)ゥ小学館 1988


諏訪大社研究記


神話と神々の系譜については 「八百万の神々を想う」 が大変詳しい。

それにしても、諏訪大社が、江戸時代に創建された長崎の氏神として尊ばれている諏訪神社のように全国に末社を多く従えることになったのは、どのようないきさつがあるのだろうか?タケミナカタノミコトを共通祖先とする集団が数多かったということだろうか?布教集団の存在は?秘教的な共通信仰の存在?

諏訪大社についてのリンク集

WIKIPEDIA 諏訪大社

◆たけみなかたのかみ で検索しても多くヒットする。

神々ファイル 建御名方神


◆神社関係のホームページ 非常に参考になる
神奈備にようこそ! 延喜式神名帳など参考になる。

玄松子の記憶
多くの神社を訪問された記録。詳しい解説、写真があり、参考になる。

悠久 古事記の現代語訳など参考になる。


信州大学の繊維学部の方の面白いエッセー「むかしむかしの信州のことばとひとびと」があった。佐久の平尾への言及がある。


縄文遠望という興味深いホームページを見つけた。

この中に 「裸の縄文人」「諏 訪 の ミ シ ャ グ ジ」と題して、佐久町の石棒についての考察が繰り広げられている小論があった。
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by newport8865 | 2006-01-12 20:05 | 神話 伝説 昔話

八ヶ岳と富士山の背比べ

佐久の昔話といっても記憶にあるものでは、よくある「山の背比べ」のバリエーションの一つだと思うが、「八ヶ岳と富士山の背比べ」の話がある。

富士山の姿は、円錐形に整っており美しく高いが、八ヶ岳は、なぜ八つも峰がある姿をしているのかという由来を語ったもので、スケールが大きく結構面白いものだと思う。
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by newport8865 | 2005-11-19 00:25 | 神話 伝説 昔話