ふるさと佐久


by newport8865
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カテゴリ:名所・旧跡 案内( 4 )

東京電力 南相木ダム 

帰省した折に、両親から最近完成した、日本一高い場所にある揚水式の発電用ロックフィルダムで、見物にちょうどいいから行ってみたらと言われて、家族ともども見学に行ってきた。

南相木村の最奥部の集落からさらに道をすすみ、これも最近できたという滝見温泉からさらに舗装道路の立派な林道を進むと、展望台とダム下の公園の別れ道がある。今回は展望台に向かった。南相木村と群馬県上野村との境で、20年前に日航機が墜落した御巣鷹山が望めるほどの場所だ。

道を上り詰めると石灰石や大理石が採石でき、鍾乳洞もあるという関東山地の白色の石灰石を利用した巨大なロックフィルダムが姿をあらわしてくる。ダムの突堤からは南相木村の谷を隔てて、八ヶ岳も西日の中に浮かんでいる。里から見上げるよりも高く見えるのが不思議だ。

このダムについては、wikipediaにも記事が載っており、揚水式発電所としては最大規模のものらしい。また、ダム湖の水は、水利権などの関係で、群馬県側の水を揚水して用いているというのも珍しい。

まだまだ完成したばかりで、ほとんど観光地化しておらず、連休の最中なのに訪れる人はまばらだった。
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by newport8865 | 2006-05-11 20:55 | 名所・旧跡 案内
縄文早期の縄文人の人骨とその人骨を残した人々の生活遺跡が発見されたことで、国の史跡として指定された北相木村の栃原岩陰遺跡には、10数年まえ一度訪れたことがあったが、このブログで記事を書いている際に、その出土物などを中心として考古博物館が建設されたということを知り、ダム見物の途中に立ち寄ってみた。

村役場と中央公民館に併設されたものだが、鉄筋コンクリート造りの頑丈な建物。小規模ながら、最新の展示ツールなどを用いて、大変見栄えのする展示になっていた。人類の進化、レプリカながら縄文人骨とその顔面復元模型や生活道具(これは実物?)が展示されている。また、洞窟内で発見された多数の動物の骨、魚類、貝類が分類され展示されているのも面白い。多いのは鹿だが、中には、すでに絶滅してしまったニホンオオカミや、絶滅が危惧されているニホンカワウソの骨とされるものもあった。

人面の復元は、博物館の来館者記念帳にも記したのだが、細面で吊り目の一重まぶたでのっぺり形で、どうみてもいわゆる弥生人型の容貌に復元されていたのには違和感を覚えた。ただ、法医学の技術を用いた蓋然性の高い復元だとすると、いわゆる縄文人の容貌に関しての通説(彫が深く、二重まぶたで毛深い:南西諸島や北海道のネイティブの人々の容貌)に対しての異議申し立てになるのではなかろうか?と思った。

特筆すべきは、骨で作られ糸通しの穴の開けられた縫い針、釣り針、そして貝などを加工したアクセサリーの数々だ。縄文人は早期の時代でさえ、これだけの文化や技術を獲得していたということは、まさに驚異だった。

この見物後、ちょっとした山歩きのために、三滝山に向かった。子どもたちは初めてだが、自分は10年以上前の夏に訪れたことがあった。道路の整備は進んでいなかったが、駐車場は広く平らなものが作られていた。また参道も階段状に整備されていた。ただ、その段差が大きく、子どもやお年寄りには少々きついのではあるまいか?大禅の滝にはまだ雪(氷)が残っていた。小禅の滝を見物して下山。以前訪れたときと景色や順路まで違っていたように思う。三滝のひとつ浅間の滝は見ることができなかった。(なお、駐車場にタンポポが咲いていたので裏返してみたところ、セイヨウタンポポだった)

なお、連休中は初夏めいた晴天にめぐまれちょうど小海町から南北相木にかけては、桜の花が花盛りだった。ただ、鳥の姿や声は見聞きできたものの、アメンボや蜂、蝶以外の小動物類や魚類、爬虫類にはまったく出会えなかった。
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by newport8865 | 2006-05-11 20:07 | 名所・旧跡 案内
平山郁夫の出世作「仏教伝来」シリーズが収蔵されていることは、結構知られている情報でしょうが、公式ページでは全く宣伝されておりません。電子展示室(収蔵品目録)にも載っていないのは何らかの理由があるのでしょう。また、この美術館の収蔵品の多くが、佐久市出身の「美術年鑑」社長だった油井一二氏のコレクションだということもあまり明瞭になっていません。

「平山郁夫 仏教伝来」で検索すると、これとかこれとかこれのように「佐久市立近代美術館蔵」と明記されて出てきますし、普通の観光案内にも目玉作品として紹介されています。

この公式ページは、宣伝が下手なのか、それとも「知る人ぞ知る」でいいと思っているかでしょうね。

ただ、この「仏教伝来」は有名作で、上記のような平山郁夫展に貸し出されることが多いようで、いつ行っても鑑賞できるというのではなく、事前に電話などで展示の有無を確認しておくことが必要でしょう。
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by newport8865 | 2006-01-13 20:51 | 名所・旧跡 案内
新海三社神社への参道の入り口にあたる場所、佐久市(旧 臼田町) 田口に、非常に小規模な「五稜郭」と称する城跡(別名竜岡城と称する)があります。現在、城跡は、小学校の校舎と校庭になっています。

今回調べていたところ、この城と田野口藩(竜岡藩)は、江戸時代の末(幕末)に出来たものとのことで、驚きました。

「松平(大給)乗謨(のりかた)の時に信濃田野口に移り、一代で明治維新を迎えた。」

松平(大給)乗謨(のりかた)についてはここが詳しく、竜岡岡城についてもよくまとまっています。

おぎゅう(おギフ)【大給】
姓氏。三河国賀茂郡大給に住した豪族で大給松平氏ともいう。始祖は物部尾興の裔が源頼朝から荻生庄の地頭に補任された荻生氏であるといわれる。乗元から代々大給城主となり、家乗が徳川家康に仕え、上野那波郡内で一万石、のち美濃高洲・浜松を経て館林六万石。さらに佐倉・唐津・鳥羽など転々と移封し、明和元年三河西尾領主となる。幕末には老中となって明治に至る。信濃竜岡・美濃岩村・豊後府内の大給松平氏はともに支族。

Kokugo Dai Jiten Dictionary. Shinsou-ban (Revised edition) ゥ Shogakukan 1988/国語大辞典(新装版)ゥ小学館 1988


五稜郭は、函館のものが有名で、こちらは規模も大きく、戊辰戦争で実戦に用いられたのですが、龍岡城の方はそのミニチュアモデルのようで、このような信州の僻地に建設した意味があまり分かりません。

函館五稜郭の方が龍岡城五稜郭よりも先に建設されたようですから、ミニチュアモデルとして先に作ったということもないようです。余計その理由が分かりません。

1864年(元治元年)3月 新陣屋(五稜郭)建設着工
1867年(慶応3年)4月 新陣屋竣工

五角形の1辺の部分の長さでみると、函館が約300mであるのに対し、龍岡城は約150mでほぼ半分。面積で言えば、およそ4分の1ということになり、ミニチュアサイズといっても良い位。


武田斐三郎は、五稜郭築城設計及び監督・函館奉行支配諸術調所教授役。
五稜郭は我が国はじめての洋式築城で、安政4年着工、7年の歳月を費やして、元治元(1864)年に竣工しました。のち旧幕府脱走軍がこの城に拠り、箱館戦争の本城となりました。
 http://www.hakodate-jts-kosya.jp/p_goryo_hi.html

これらを改めて調べる前には、田野口藩は、新海三社神社の祭礼のために設けられたのではないかという頓珍漢な仮説を考えておりましたが、まったくの妄想でした。
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by newport8865 | 2006-01-13 20:13 | 名所・旧跡 案内