ふるさと佐久


by newport8865
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カテゴリ:行事 風習( 6 )

以前、 全国小正月行事調査「どんど焼きは国民行事」 への回答案をアップしたことがあったが、久しぶりに上記の小正月行事のサイトをのぞいてみたら、着実に調査は継続されているようで韓国その他の外国の「火祭り」にまで調査が及んでいて驚いた。

また、このブログの記事についても、一覧表
-「佐久の柵に桜咲く」さんブログ提供情報-2010年1月8日
 (※佐久の柵に桜咲くさんのブログに連絡先が見あたらないため、この欄でお礼を申し上げます)

と断り書きがあり、ほぼそのまま掲載いただいていてうれしかった。

ただ、改めて読み返してみるともう40年以上昔の記憶なので、主要行事(山からの木おろし、道祖神の御年始の獅子舞とどんど焼き)の日付も、あいまいな感じだ。

その後いくつか思いだしたことや新たに調べたことを書き付けてみよう。

1.思い出したこと:
私が住んでいた坂下地区という小字(こあざ)の行事では、公民館の広場の入り口に、ケヤキ?か何かの大木がそびえ、その木陰に道祖神のお社が鎮座していたので、公民館の広場をどどんど焼き行事に使っていた。他の地区(隣の中宿など)の行事は、田んぼで行われていたのを記憶している。私の地区では、諏訪大社の御柱のような丸太を中央に立てた記憶は残っていないが、そういえば上記の隣の地区では数メートルある丸太を田んぼに立て、そこから四方に藁縄を引き、縄には紙四手(かみしで)、柱の頂上には御幣(おんべ)をつけていたように思う。

諏訪神社の祭礼は近隣の地区ではなかった(油井亀美也宇宙飛行士の故郷の川上村の上流地区では諏訪祭礼がおこなわれるらしい)が、想像するに、その高い丸太は、神の依代(よりしろ)のような役割を持ち、また私の地区の年末?の山からの木おろしは、諏訪大社の御柱(おんばしら)の神事につながるような山の神の祭礼の機能も持っていたのかも知れない。

2.かんがり、かんがりや について:
川上村の「かんがり、かんがりや」、南北の相木村の「かあがり」 という言葉については、このブログの別のところでも書いている「神あがり」という解釈の余地もあるかも知れないが、全国各地の表を検索すると同じ習俗を「仮屋」(かりや)、「御仮屋」(おかりや)としている例が多く、「神の仮屋」、「神仮屋」の訛音とするのがより適当なのかも知れないなどと思ったりもする。ただ、同語源とおぼしき南北相木村の「かあがり」の「あがり」が訛音としては、「神仮屋」よりも「神上がり」に傾くと思われるので、何とも判断に苦しむところでもある。

なお、Wikipediaの左義長の項 の、
かんがり、かんがりや
長野県南佐久郡川上村。かがり火の転とも、歳神様を天に送る(神上がり、神上がり屋・夜)とも言われる。
の記述は、不詳私の編集ではあるが、特に神上がり夜の典拠は、今となっては曖昧となってしまったのが悔やまれる。

北相木村の「かあがり」
「神様の火(かがりび)が 訛り、 かあがりになった」との説も紹介されていた。

どんど焼きの名称調査では、「かあがり」も結構票をあつめていた。

かあがりの様子に触れたサイト


【獅子舞・かんがり】
道祖神祭の一つで、1月2日と7日に、海尻地区の小学生4年~6年生の児童が行う行事。
12月下旬の夜2日間子供達が公民館に集まり、獅子舞の練習やお札・オッペ(御幣)を作る。


改めて、国語大辞典では、

かむあがる【神上がる】
〔自ラ四〕=かみあがる(神上)

かみあがる【神上がる】
〔自ラ四〕
1 神が天におあがりになる。転じて、貴人がなくなる。崩御する。かんあがる。*書紀‐神代上(兼方本訓)「神功(かむこと)既に畢へたまひて、霊運当遷(カミアカリ)ましなむとす」
2 巫女(みこ)に乗り移っていた神霊が天上に上がり去る。*滑・浮世床‐二「うなり声を引て神あがる」

かみあがり【神上】
1 神が天におあがりになること。転じて、貴人がなくなること。かんあがり。
2 巫女(みこ)に乗り移っていた神霊が、天上に上がり去ること。

かみあげ【神上】
神降ろしした神を、祭が終わったあと天上にお送りすること。また、その際に歌う神楽歌(かぐらうた)。

かりや【仮屋】
2 神輿渡御の際の御旅所(おたびしょ)。

国語大辞典(新装版)小学館 1988

とあった。

3.かんがり」についてのいろいろな記事:
①荻原井泉水
「かんがり と がっつり

さて、今日のブログテーマはと考えて金田一先生の「ことばの歳時記」、7月27日の項を読んでみると、「かんがり」とあった。

初めて聞くことばだ。金田一先生は、むかし、俳人の荻原井泉水の書いた紀行文を教科書に載せたことがあるのだそうで、「富士登山」というそのエッセイの中に見つけたのが「かんがり」。ご来迎を拝むシーン、東方の空が明るくなるといった意味で使われているが、先生も始めて聞くことばだったらしく、辞書をいろいろ調べても見つからない。

結局、荻原本人に尋ねたところ、「かんがり」とは、俳人本人が苦心して作り出した新語だったことが判る。ほんのりよりも明るく、こんがりほどに熱くはないといったニュアンス。東の空の赤らみ具合の微妙な変化を表わしたかったと説明されたと書いてある。


荻原井泉水の「かんがり」の俳句が見つかった。 

佐久にもゆかりのある荻原井泉水の造語という説だが、国語大辞典には、「がんがり」という言葉が掲載されており、
うす明るいさま、またほのぼのと空が明るくなるさまを表わす語。*俳・毛吹草‐六「がんがりとはねまでみゆる月夜哉」

国語大辞典(新装版) 小学館 1988

とあり、江戸時代前期の俳論書だという「毛吹草」に用例があるらしい。

②芥川龍之介
検索をかけていたら、芥川龍之介の「或る日の大石内蔵助」には、「かんがり」の用例があるのをみつけた。井泉水とはどちらが早いのだろうか?

③沼島上臈
これは関係ないだろうが、「沼島上﨟」(淡路島の伝説?)に「かんがり」という呼び名について書かれている記事があった。どうやら魚の名前の別名らしい。

④アメノウズメノミコト?
199754 ウズメノミコトのおどりは騎馬民族由来?
という記事に以下のような不思議な記述があった。「かんがりの独白劇」
◆ウズメノミコトの踊りとは

ウズメが行なったのは、このような行為である。
----------------------------------
鬘や襷で扮装した天細女は手淫を行なったうえで、覆せた槽を並べた舞台にのぼり、かんがりの独白劇をやってのけた。
------(三隅 2002年)----------


Wikipedia のアメノウズメ
の記事を読んだところ、
「槽伏(うけふ)せて踏み轟こし、神懸かりして胸乳かきいで裳緒(もひも)を陰(ほと=女陰)に押し垂れき。」

とあったため、神懸かり を 「かんがり」と記したもののようだ。「かみがかり」は古くは、「かむがかり」と訓んだという。

確かに、神懸り・神憑り と記すと、「かむがり」と訓みたくなる。

⑤最近の「かんがりや」に触れた記事
長野県内の「火祭り」をまとめた記事があった。
 南牧村川平地区では、やぐらの他に「おかりや」というものが作られる。男女の形をした道祖神の周りを小枝やワラで囲み、しめ縄を飾ったお椀を伏せたような形のものだ。それに火を点け全体に火が回った頃、地区の未婚男性によって道祖神が取り出される。「道祖神を火の中から助け出すと良縁に恵まれる」という言い伝えからだという。


◆南牧村のかんがりや
隣村、南牧村野辺山にあるホテルのブログ。川上村のかんがりやとは少々様子が違う。

南牧村海尻の「かんがり」の記載があるページ


川上村のホームページの歳時記には、
道祖神まつり
●松引き●小屋つくり●紙集めとおんべきり●木集めとおんべ建て●おかりやつくり●獅子舞●どんど焼き
と行事が細かく分かれて書かれている。ここでは、「かんがりや」とは書かれておらず、「おかりや」と記されている。

◆川上村大字御所平字新宿の「かんがりや」
地元のJA(農協)の記事があった。同じ大字御所平の小字新宿地区では現在も、私が40から50年ほど前に経験したのと同じようなかんがりやの行事が伝えられていた!

ちなみに御所平は比較的大きい集落で、川上村内では東から西に流れる千曲川の下流に向かっての右岸に、「本郷」(お寺がある)、その向いの左岸に東から「坂下」(お森に住吉神社が祀られている)、「中宿」、「下宿」、「新宿」(JRの信濃川上駅がある)と、小字が並び、その小字ごとがグループになって、それぞれ「かんがりや」が行われていた。私より少し上の世代の頃までは、他の地区に遠征して、たき火の周囲で太鼓を叩きながら火の番をしている子供たちと喧嘩をしたり、スルメやミカンを分け合ったりというような「遊び」があったという噂があった。
2014年01月29日
主役は子どもたち、道祖神祭り「かんがりや」 [JA長野八ヶ岳]
「お祓いと獅子舞をして回る子どもら
川上村御所平新宿地区でこのほど、小正月の伝統行事で道祖神祭りの「かんがりや」が行われ、子どもたちが地区内約60戸をおはらいと獅子舞をして回った=写真。
JA長野八ヶ岳川上支所にも7人の子どもが訪れ、掛け声に合わせて「家内安全」「商売繁盛」の願いを込めておはらいと獅子舞を行い、「奉信道道祖大神宮」の御札を受けた。掛け声は、無病息災を願って「風邪ひかねぇようにー」や豊作を願って「野菜がたくさん取れるようにー」など、訪れる家によってさまざま。
この「道祖神のご年始」が終わると、道祖神を祀(まつ)るお宮「かんがりや」を燃やす「どんど焼き」が行われ、燃え上がる炎で繭玉をあぶって食べたり、書初めを燃やしたりし、今年一年の健康と勉学の向上を祈った。


◆おかたぶち
御所平の東隣の大字「原」地区の、比較的よく知られた「おかたぶち」の記事には、「かんがりや」の日程についても触れられていた。こちらは1月14日だという。15日というのは自分の記憶違いだろうか?

原のおかたぶち 新しい仲間を迎え入れる歓迎の儀式
県指定無形民俗文化財 【川上村】
由来・次第
 道祖神習俗の流れをくみ、毎年1月14日に行われる嫁祝いの儀礼習俗で「かんがりや」とも呼ばれる。「おかた(お方)」とは嫁に対する最高の敬称で「おかたぶち(お方椽)」といえば、嫁がその家に嫁ぎ、占有した座をいう。おかたぶちの対象となるのは、前年1月15日より当年1月14日までの一年間に嫁入りまたは婿入りのあった家である。
 行事に参加するのは、小学校1年生から6年生までの男子で、6年生が親方、5年生以下の子どもたちが家来と呼ばれる。
 1月14日、各戸から注連縄や松飾りを集め、夕方までにお仮屋をつくりあげる。夕方、親方は家来を引き連れてお仮屋前へ整列し、神官のお祓いを受ける。続いて、御幣を持った親方を先頭に、一行は新嫁の家へ向かう。家では新嫁と付添い人が晴れ着を着て茶の間の表に向かって座り、一行を迎える。子どもたちが家に着くと、一番家来は太鼓を打ち「おかたぶち」と大声で言う。親方は、各々御幣を持って茶の間へあがり、嫁に向かって着座、黙礼して立ち、御幣を振りながら嫁のまわりを3周歩いてお祓いをする。以前は、御幣で嫁の尻を叩くこともあった。この御幣は、嫁を多産にする呪力をもつとされ、嫁叩きは、子授けのまじないであるとともに、新嫁がこの村に加入する儀礼でもあったと考えられている。
(写真 川上村教育委員会)
●開催日/1月14日
●開催地/川上村原地区


この行事は、御所平には伝わっていなかった。

◆川上村誌民俗編の「かがり火」と「お仮屋」の記述
こちらのブログには、 川上村誌民俗編の記述が引用されている。これは16日となっている。小正月行事だったので、15日だと思い込んでいたが、数日かけての行事だったのかも知れない。15日が獅子舞で、16日がかんがりやだっただろうか?

十六日夜、かがり火の上に樅で作ったお仮屋をのせて一時に燃す。お宮はパチパチと音をたてて燃え、火の粉は中天に舞い、すさまじい火柱は冬の夜空を焦がし壮観を極める。この炎上する火に、各自書初めを棒の先につけてかざすと、紙は燃えながら高く舞い上がる。高く上がるほど手が上がる(習字がうまくなる)といわれている。



さて、どこかにあの樅(トウヒ?)で作られた立派なカンガリヤ(お宮型の仮屋)の写真はないものだろうか?地元にとってはあまりにも身近な年中行事なので、あまりネットにアップするようなことが無いのかも知れない。外部からその地にIターンなどで住むようになった人のブログなどにこのような行事の記事が見られるのはそれが理由だろう。自分も子ども時代を過ごした場所から転出したがゆえに、懐かしく思い出されるのかも知れない。上記の「新宿」の「かんがりや」の主役たちは、下手をすれば、自分の子どもというよりも、孫の世代といってもいい世代になる。

南佐久の「かんがり」
南佐久地方では、木で小屋を作ってわらで屋根をふいて、さらに松の枝でかこいます。
この小屋に火をつけるという方法で行われ、さらにその燃え残ったものを持ち帰って自宅の屋根に投げあげます。
これが火除けになるとされ「かんがり」という名で親しまれる行事となっています。

確かに、燃え残った「かんがりや」の燠火を家に持ち帰って炬燵や薪ストーブの燠火にする、というような風習もあったかも知れない。さすがに屋根に投げあげたら、わらぶき(茅葺)屋根は燃えてしまう。

4.「春の祭典」
ところで、上記の調査サイトのまとめにも書かれていたのだが、この行事も太陽暦への改暦までは、当然太陰暦で行われ、東アジアの太陰暦の正月(中国の春節)に行われていたので、正月が太陽暦の1月下旬から2月中旬だった太陰暦時代には、ほぼ厳寒の二十四節気「大寒」を過ぎてから行われていたことになる。当然、小正月の15日は満月だった。春の訪れを寿ぐ満月の夜の火祭りというと、まさにはるか縄文時代からの血脈のロマンが蘇るようにも思う。(但し、冬は狩猟の季節だったはずの狩猟採集文化に由来するよりも、弥生時代以降の農耕儀礼に関係するものだろうから、連想を飛躍しすぎるのはどうかとも思う。)

ただ、想像を少しほしいままにすると、外国の行事として、フィクショナルなものではあるが、有名なストラヴィンスキー、フォーキン、ニジンスキーによるバレエ「春の祭典」、ロシアの古い「春の訪れを祝う異教的宗教行事」を題材にした作品をも思い起こす。さすがにこれは舞台芸術なので、火祭り的な脚本は無かったはずだが、ゲルギエフによる初演の復活上演の試みなどを見た記憶を思い起こすと、「火祭り」の要素が含まれていてもおかしくはない。ストラヴィンスキー等が、どの程度民俗的・習俗的な取材を行ってこの音楽、舞台を作り上げたのかはまだ調べたことはなく、舞台を見る限り農耕儀礼というよりも狩猟採集、遊牧文化的な印象が強いが、おそらく、季節的には、厳寒期が終わり、春の兆しが訪れるか否かの時期(相当の蓋然性をもって太陰暦ベースで)にこの祭典が行われたことを想像することは可能だと思う。モンゴル帝国の影響を被ったロシアを考えると、東アジア圏の春祭りの習俗という意味で、何らかの共通性があるのではなかろうか? 

残念ながら欧州の調査は、まだ少ないが、モンゴル、ロシア(シベリア地方もウラル山脈以西も)やハンガリー、フィンランドなどを調べると面白い結果が出てくるように思う。

5.仙台のどんと祭
記憶は意外に薄れやすいものだ。仙台市で大学生活を送ったのだが、1度だけ友人と仙台市の北部(旧仙台市域で、現在なら中心部になるのかも知れない)にある大崎八幡神社のどんと祭「松焚祭」を、小雪の降る寒い晩に見に行ったことを急に思い出した。(現在では大崎八幡宮が正式名称らしい)。
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by newport8865 | 2015-09-11 20:00 | 行事 風習
昨日、子ども達とドライブで小田原方面へ出かけた。高速道路は日祭日の割引で大層混んでいそうなので、国道1号線経由で行くことにした。平塚から大磯に掛けて走ると
道の端にいくつもの祭りの紅白の垂れ幕がかかり提灯が飾られた小屋や、正月の松飾、だるまなどを積み重ねてあるのを見かけたので、「ああ、今日、相模地方の道祖神祭りがあるのか」と思い、子ども達に信州の小正月行事のことを話をした。午後だったので、道を進めるほどに、二宮、小田原と 子ども達やお年寄り達が三々五々道沿いの祭り屋台に集まってきて、屋台の中には、酒、蜜柑や菓子などが積み重ねられて祭られており、夕方5時ごろ同じ道を帰る頃には、子ども達が蜜柑や菓子を袋に入れてもらい帰るらしいところを見かけた。元々相模地方は、この道祖神祭りが盛大に行われているということだが、旧東海道沿いの集落ではいまだに伝統行事として続けられているようだ。ただ、街道沿いで広場がないためか、松飾などは積み重ねられてあるだけだった。

ただ、この日は1月10日で、まだ小正月である15日とは大きな差がありすぎる。国民の祝日法の影響だが、こうして、暦とのつながりが失われてしまうのだろうと思うと、寂しいものがある。
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by newport8865 | 2010-01-11 12:01 | 行事 風習
小正月行事のことを調べていてたまたま、

どんど焼きは日本の国民的行事
    小正月行事の全国調査集計(平成21年版)

という調査を見つけた。

このサイトを知った人による回答で、必ずしも全国的な調査とも言えないが、この調査の中では、「かんがりや」「かんがり」という名称の回答はなかった。既に終了した調査のようだが、回答案を作成してみた。

また、Wikipediaの左義長に、小海、相木の「かあがり」と、川上の「かんがり、かんがりや」を追加した。

-----------
小正月行事の全国調査報告書を拝見しました。
全国的にも珍しい「かんがり、かんがりや」という呼び名の行事を報告いたします。

地域 長野県南佐久郡川上村大字御所平字坂下

実施日:昭和40年代(報告者の小学生時代)には、小正月の1月15日。

名称:かんがりや(かんがり)、どんど(どんどん)焼き、道祖神のご年始(獅子舞)

場所:その片隅に質素な道祖神の祠が祭られていた大字御所平地区の公民館の広場。火の見櫓や消防団の消防ポンプ、多分庚申塔のようなものがあった。

参加者:小学生の男子。地域住民。

内容:いわゆるどんど焼きの「火祭り」は小正月の1月15日の夜に小字の住民が集まって行われました。

地域の小学生の6年生が「親方」となり、それ以下の小学生男子が「子方」となって年末に大人に助けてもらって近所の山から枯れ木や木の株などをリヤカーで積み下ろし、正月の初めから広場の真ん中で太鼓を叩きながら焚き火を続け(夜は近所の大人が燠を持ち帰った?)、正月休みが終わると近所の大人が火の番を行いました。子どもたちは学校が始まってからも夕方になると広場に集まり、火の番を行いました。15日の朝、地域の各戸の戸口に出された松飾を子どもたちが集めてから、改めて獅子舞の道具を公民館の倉庫から取り出し「道祖神の御年始」と唱和しながら地域の全戸を廻り、獅子舞を披露し、獅子の口で住民の頭を噛み、無病息災を祈りました。そのお礼に子どもたちが共同でお年玉を受け、それを後日子どもたちで学年順に多寡をつけて分けました。15日は夕方から大人たちが山から集めてきた杉の葉と集めてあった松飾で「神社」型の「神殿」を作り、夕方6時頃にそれを焚き火の上に載せ「どんど焼き」を行いました。この「神殿」のことを「かんがりや」(神上がり屋、かんがりや?、隣村の南相木村ではこの行事を「かあがり」とも言うそうです)と呼んだように思います。母や祖母は、上新粉そのものと、それに食紅や緑の色素を混ぜ、白、紅、うす緑の「おまいだま(御繭玉)」という団子の一種を作り、木の枝に挿して稲の穂のようにして、神棚に祭ったものを、子どもたちがどんどん焼きに持ち寄り、炙って食べました。正月の切り餅を持ち寄ることもありましたし、また書初めを燃やしその燃えカスが天に昇れば昇るほど書が上達する、どんどん焼きの火に当たると風邪を引かないなどとと言い習わしました。

趣旨:現在はどのように行われているかはわかりませんが、厳寒の中、年末から小正月まで続く子どもたち(男子)が主体となって行う祭礼で、春秋の村社の祭礼と並んで盛大なものでした。小字単位で同時に行われたため、他の地区の祭礼の様子は互いにほとんど知らないままです。

この祭礼自体道祖神の祠のそばで行われ、獅子舞を「道祖神の御年始」と唱えて各戸を回ったように道祖神のお祭りであり、「かんがり」と呼んだのは恐らく「歳神様」を天に「神上がり」していただくことに由来するものだと思います。川上村の「かんがり」「かんがりや」、南相木村、北相木村の「かあがり」については全国的にも類似の呼称はないようで、小正月行事の呼称としては珍しいものではないかと思います。このように道祖神、獅子舞、火祭りなど様々な信仰、習俗が習合したものだったように思います。

関連記事:2006/01/10 新海神社は延喜式内社ではなかったが・・・  


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by newport8865 | 2010-01-08 21:18 | 行事 風習
私の実家は、両親とも南佐久の出身なので、食卓にはよく「味噌煮込みうどん」が出る。

幼い頃は、うどん料理といえば、このようなものだと思っていたので、いわゆる店屋物の醤油仕立てのうどんは、少々異質な料理のような感じを受けていたものだった。

私が母親から伝授されたものを自己流にアレンジしたものを紹介すると、人参、長ネギ、ジャガイモなどのありあわせの野菜や油揚げ、竹輪(豚肉)を適当な大きさに切り、それらの具をだし汁で煮て、そこに茹でうどん(玉うどん)を数玉を投入し、うどんに火が通ったのち、味噌で味を調えてできあがりである。どんぶりに盛り付け、好みによって善光寺七味などを振り掛けて食する。夕食の残りは翌朝また暖めなおして食べるが、うどんの腰はもう伸び切っている。学生時代にときおり自炊したものだが、北佐久は望月出身の同じ大学の仲間に作ってやったところ、非常に珍しがっていたが、美味いといってくれた。実家では、野菜ではときおり南瓜やキノコ(特に山取の天然キノコ)を入れることがある。

父は、このうどん料理が好物で、現役時代新潟県に赴任したときには、近隣の商店で「玉うどん」が入手できないことを嘆いていた。(新潟は米文化圏なので、粉食文化的な「玉うどん」を家庭料理で食べる習慣がないのではと言っていた)

しばらくのちに、甲州に「ほうとう」という郷土料理があることを知った。南佐久の「うどん」はこの影響を受けたものだろう。現在、「ほうとう」料理は、山梨県内に多くのドライブイン的な店ができて、高速道路のサービスエリアなどでも食べられるほどで、相当ポピュラーなものになっている。その由来としては、武田信玄の陣中食、つまり合戦の時の戦時食料というものがあるようだ。現在、合戦には単なる武力だけではなく、輜重・兵站つまりロジスティクがいかに重要だったかの研究も進んでいるようだが、このホウトウなどはどのような位置づけになっているものだろうか?

また、山梨県の郷土料理が、長野県の東部に伝わったということは、それだけ人的交流があった証拠だろうが、その影響はいつごろのものだったのだろうか?現在の国道141号線は、江戸時代の信州往還であり、それ以前には、いわゆる信玄の棒道(軍事道路)でもあり、山梨県から長野県への流れとともに、逆の流れも当然あったものだろう。

現在、関西圏が、粉食地帯(いわゆるうどんやたこ焼き、お好み焼きなどの小麦粉を使う食文化地帯)といわれるようだが、佐久の近県の山梨県も群馬県も小麦の産地としてうどん文化があるようだ。これはいつごろから始まったものだろうか?

佐久も北の方では、古くから水田地帯で米食が盛んだったようだが、南は高冷地で水田の実りも悪く、米以外の五穀、蕎麦などを食べることが多かったようだから、「ほうとう」の影響を受けたのであろうか? もともとは、うどんを打つまでの手間をかけることもなく、戦時中や戦後の食糧難の時代のスイトン(水団)料理のようなものだったのだろう。佐久の小麦栽培はあまり聞いたことがないのだが、どのようなものだったのだろうか?

なお、ホウトウ という言葉は、WIKIPEDIAにも掲載されている。北関東では同様の料理を「おっきりこみ」というらしい。

「ほうとう」の名は「餺飩(はくたく)」の音便したものとも言われる。名称としては、うどんと同程度の歴史があり、うどんと同様に中国から伝来した料理と考えるのが自然である。現代の陝西方言でワンタンのことを「餛飩」と書いて「ホウトウ」と発音するが、長安から伝わった料理の可能性がある。同音の「宝刀」や「放蕩」などを語源とする説もあるが、俗説であろう。



ところで、麺料理には「おざんざ」という言い方も、佐久(信州)にはあるようだ。この言葉(方言)も父母がときおり使う。ネットで調べたりすると、オザンザは調理法に限定されて使われるのではなく、より広く麺料理に使われるようだ。非常に不思議な、擬音的な語感の言葉であり、その語源に興味がある。細い麺の様子がザンザと降る雨のようだというような説を聞いたことがある。

また、「おにかけ」という言葉もある。いわゆる味噌煮込み系の「うどん」とは異なり、そうめんのような細い麺料理のある種の食べ方をさすらしい。南佐久の母親の実家で法事のあったときに、親戚や近所の女性がそうめん(冷麦)を茹で、それを水洗いしたのち、小分けに椀に盛りわけ、そこに醤油仕立てで、莢インゲンや油揚げなどの具入りの汁をかけてくれたのを食べたことがあるが、これを「おにかけ」というらしい。つまり、「煮(汁)掛け」だろう。
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by newport8865 | 2006-02-05 20:48 | 行事 風習

縄文人の暦は?

昨日が旧暦(太陰暦)の正月ということで、暦のことを何気なく考えていたところ「縄文人が暦をもっていたとすると月か太陽のどちらを基準としたのだろうか」という素朴な疑問が生まれた。

先日、土器のカエル模様について、「太陰暦的な」という言葉が遣われていたことがきっかけになっている。

中国から伝わった暦は、月の満ち欠けをもとにした太陰暦なのだが、それ以前はどうだったのだろうか?

古代人の暦と言えば、ストーンヘンジだとか、ピラミッドだとかの巨石遺跡が、春(秋)分や夏至、冬至に関係あるような説があり、縄文時代のストーン・サークルもそれに類するのではないかといわれている。

弥生人(縄文時代後の渡来人)の信仰が国家的に整備されたのちの、この国の神話体系では、天照大神が最高神となっているが、これは季節に大きく依存する農業が主たる生活手段になっていたからかと想像される。(しかし、北欧の太陽信仰の冬至祭りが、クリスマスの起源の一つとされるが、太陽信仰の起源と農耕は必ずしも不即不離なのだろうか?北欧は狩猟が主たる生活手段ではなかったのか?)

狩猟採集を主たる生活手段としていた縄文人にとっては、細かい暦は不要だったのかも知れないが、北欧の例を見れば、必ずしも太陰暦的か太陽暦的かは容易には分からない。

諏訪の御柱祭りは、申の年と寅の年(6年ごと)の春に行なわれることになっているが、古代信仰を現代まで伝えるといわれるこの祭礼は暦は関係していないのだろうか?

「信長の棺」では朝廷と信長の緊張は、中国からもたらされた暦と、南蛮人のもたらした暦の衝突に由来するという説が述べられていた。非常に興味深い。(江戸時代では、徳川将軍家の天文方が暦を司ることになったようだが)

佐久町の縄文の大石棒などは、夏至、冬至の南中時の影を測るのには最適だったように思われる。(ところで、この大石棒、例の「戌の満水」のときにはどうだったのであろうか?そのような大洪水は歴史時代になっても数多く発生しているようで、現在の位置とは別の場所にあったとも考えられるのではなかろうか。)

北沢の大石棒 約4500年前(縄文中期)に佐久西小学校裏遺跡に住んだ人々が、豊かな実りと動物や人間の誕生とを重ねあわせ、集落の繁栄を願う信仰のシンボルとして湧水のほとりに立てたものと思われます。地中より発見され、後日千曲川の支流、北沢川沿いの河畔に立てられました。佐久石とも呼ばれる志賀溶結凝灰岩で作られており、高さ2.23m、直径25cmの大きさは「日本一」です。


佐久西小学校付近の地図

縄文人と暦の関係で、「縄文学研究室」という大学院生の方が開設しているページがヒットした。
その中に 「太陽と山と縄文人」という研究があり、ここにちょうど環状列石(ストーン・サークル)について書かれている。
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by newport8865 | 2006-01-30 20:55 | 行事 風習
南佐久から北佐久の小諸あたりまで、新暦の8月1日は墓参りの日である。南佐久ではこの日は特別な行事の日として、事業所なども特別に休みになるほどで、千曲川流域でも上田、長野方面の人には不思議に思われているようだ。

長い間、この習俗、行事の由来については、分からず、父は次のように想像していたほどだ。
 1月1日と15日は、新年を祝う祭日・行事として元旦、小正月として重要な日付であり、お盆も本来は旧暦7月15日を中心とする日々に行なわれる仏事だった(新暦では8月15日を中心に行なわれるが)。7月は1年のちょうど後半が始まる月であり、その1日も歳神行事に関係してもともとは重要な日だったが、その風習は一般には廃れたが、佐久地方だけに墓参りとして残り、15日のお盆の先駆けになっているのではないか、と。 太陰暦的には朔(新月、ついたち)と十五夜は大きな意味を持つ日であり、沖縄では今でも毎月の朔と望のときに巫女による行事があるという。

参考:市川よみうり 年中行事の連載記事


また、8月1日はいわゆる八朔の日である。
はっさく【八朔】
(「朔」はついたちの意)
1 陰暦八月一日。また、この日の行事。田実(たのむ)の祝い(節供)のこと。農家で、その年に取り入れした新しい稲などを、主家や知人などに贈って祝った。のち、この風習が町家でも流行し、この日に上下貴賤それぞれ贈り物をし、祝賀と親和とを表すようになった。また、武家では、鎌倉時代以降武士の祝日の一つとなっていたが、天正一八年のこの日に、徳川家康が初めて江戸城にはいったところから、大名・小名や直参の旗本などが白帷子(しろかたびら)を着て登城し、将軍家へ祝辞を申し述べる行事が行われた。《季・秋》
2 江戸の遊里、吉原で行われた紋日(もんび)の一つ。陰暦八月一日。遊女たちが、そろって白無垢(しろむく)の小袖を着て、客席へ出たり、おいらん道中を行ったりした。元禄年間、遊女高橋が白無垢のまま病床から客席に出たところから始まったという。

Kokugo Dai Jiten Dictionary. Shinsou-ban (Revised edition) ゥ Shogakukan 1988/国語大辞典(新装版)ゥ小学館 1988
 という年中行事も八朔の墓参りの由来の一つということも考えられる。

しかし、この8月1日の墓参りが、先に紹介した「千曲塾」の小旅行をしながらの講座の第7回の記録により、1742年 壬戌(みずのえいぬ)の年の旧暦8月1日の未曾有の大洪水による被害者を慰霊する行事に恐らく由来していることが分かった。後で記すように、千曲川流域のみならず、近畿から東北地方まで広範囲にわたる台風による大洪水で各地に多くの記録が残っているのだが、この慰霊祭が佐久地方に200年以上も続いているというのは、注目に値する。(井出正一氏の記事参照)

これは井出孫六氏の戌の満水についての講演記録。

また、小諸城の重文三ノ門もこの洪水で流出し、その後再建されたものだという。千曲川からみるとあのような高台にある建物が流出したということは、浅間山から流れ出す小河川の洪水もすさまじいものだったのだろう。

◆18世紀には天候が不安定だったことは、同じ千曲塾でも言及されている。

洪水の発生頻度は18世紀に高い。寛保2年(1742)の「戌の満水」から、19世紀の終わりまでが多かった。どういうことかというと、天明・天保に始まって、日本は小氷河期になります。それで気候が非常に不安定になり、それとともに洪水が頻発するようになった。
 20世紀に入りますと、気候は安定してくる。20世紀は気候的には非常に恵まれた時です。今後はどうなるか。予測は難しいが雨が降る量は増えて来ると思います。世界中に降る雨の量は同じですが、ぶれが大きくなる。いま地球上も暖かいところもありますが、寒い所もあります。そういうことで地球の気候が不安定な時期に入ったといえるかと思います。温暖化を防ぐために、二酸化炭素の排出規制が大きな問題になっています。


 「日暮硯」で有名な恩田木工田民親(松代藩家老)25歳のときに、松代城下がこの戌の満水に襲われた。この戌の満水が千曲川・信濃川全流域に大変な水害をもたらしたことがよく分かる。(ちなみに木工とは もく と 読み、木工の頭 もくのかみ :宮中の官職名 の略らしい) これにより、松代藩が幕府から多額の借金をせざるを得なくなり、その後の藩政が疲弊したようだ。

歴史データベース on the Webを検索すると、この水害が近畿・中部・関東を襲い、googleなどで検索してみると東北地方まで被害にあっていることが分かる。現在毎年襲来する台風の進路からいって
も近畿以東を巨大台風が襲ったことが分かるし、洪水の記録が新暦の8/28から9/6まで続いていることから、新暦8/30の台風に続いてまた台風が続けてきたのか、秋雨前線の活動が活発化したのかどちらかだろうか?

1742/08/28,寛保2/07/28
中部・近畿で、大風雨がやまず、諸河川が氾濫し大洪水となる。
1742/08/30,寛保2/08/01
台風が江戸を襲い、大名屋敷に至るまで水浸しにする。
1742/09/01,寛保2/08/03
大風雨により利根川・荒川が大洪水になり、関八州に大被害を及ぼし、田畑の水没は80万石に及ぶ。
1742/09/06,寛保2/08/08
関東・江戸が洪水となる。
1742/09/21,寛保2/08/23
幕府が勘定方に水害地の巡視を命じる。

なお、時の将軍は、八代将軍徳川吉宗で、公事方御定書が制定された年にあたる。

くじかたおさだめがき【公事方御定書】 江戸幕府の法典。二巻。寛保二年成立。八代将軍徳川吉宗の命により、老中松平乗邑の下で、寺社・町・勘定三奉行が現行の法令、判例を整理して編集。上巻は司法・警察関係の法規八一条、下巻は御定書百箇条と呼ばれ、訴訟・裁判の手続き、刑罰規程等一〇三条を収める。

Kokugo Dai Jiten Dictionary. Shinsou-ban (Revised edition) ゥ Shogakukan 1988/国語大辞典(新装版)ゥ小学館 1988


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付記 2015/9/15
Wikipedia 戌の満水 の元記事2006/9/1は、このブログ記事を元に私が投稿したものです。

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参考:Wikipedia日本語版へのリンクの貼り方 (文字化けを避ける方法)
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by newport8865 | 2006-01-20 20:26 | 行事 風習