ふるさと佐久


by newport8865
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「ずら」という語尾

自分の経験的な記憶なのだが、「そうだろう」という標準語の推量や疑問の言い方は、南佐久の方言では、「そうずら」や「そうずらい」と言う。(小諸あたりの北佐久では、「そうだず」と言っていたように思う。)

「ずら」という語尾は、いかにも田舎言葉なので、父母や弟と何気ない会話をするときには出るが、普段は使うことがなくなってしまった。

川上小唄という川上村の盆踊りなどで使われる小唄では、「あちゃ見ろそうずら、まったくそうずら」という川上村の方言を合いの手に使っている。

佐久方言については、やはり「佐久の風はふるさとの風」サイトのwebmasterの方が非常に丁寧に網羅的にまとめられており、大変参考になる。

自分も父母や親戚のお年寄りに聞き取りをして、補遺を作りたいものだと思う。


さて、国語辞典には、
ずら
〔助動〕(助動詞「うず」に「らむ」の付いた「うずらむ」から出た「ずろう(ずらう)」の変化したもの)推量・疑問の意を表す。…だろう。*咄・鹿の巻筆‐四「ちり紙に火がついづら」

Kokugo Dai Jiten Dictionary. Shinsou-ban (Revised edition) ゥ Shogakukan 1988/国語大辞典(新装版)ゥ小学館 1988


以前、伊豆を舞台にしたドラマで、この「ずら」言葉が使われた記憶があるが、今日静岡の名産を紹介したテレビで、静岡の語尾では「ら」が結構有名らしい。

伊豆から佐久への途中には富士川沿いの静岡山梨が途中にあるが、このあたりの方言の特徴はどうなのだろうか?

方言は郷土遺産という掲示板に、甲州も「ずら」の分布地域だと出ていた。ただ、その掲示板の記事に佐久は違うとなっていた。北佐久は確かに「ずら」圏ではないが、南佐久は「ずら」圏だろう。

「…ずら」というのは,信州の松本・諏訪地方から,山梨県の甲府盆地を経て静岡県東部にかけての地域に代表的な言葉です。静岡に行くと「…だら」というのも現れるようですが。
ちょうど「フォッサ・マグナ(大地溝帯)」の西縁を限る大断層「糸魚川・静岡構造線」に沿った地域ですね。
(かなり誤解されているのですが,この断層線が「フォッサ・マグナ」なのではありません。この線の西側の長野盆地や上田盆地などもフォッサ・マグナには含まれます。では東の縁は?というと,これははっきりしていません。)

同じ信州でも,東信の佐久・上田や北信の長野・飯山ではあまり耳にしません(「国語学」の教科書類では一応「ずら圏」には入るようですが)。
また,飯田・下伊那や木曽では全く言葉が違っていて,こちらでは「居る」を「おる」と読んだり,「…しとる」「…しとらん」というような西日本っぽい特徴が現れてきます。

山梨県のうち「国中(くになか)」と呼ばれる甲府盆地は,この「ずら圏」なのですが,「郡内」と呼ばれる南北都留地方では「…ずら」はあまり聞かれません。隣の神奈川県や東京・多摩地方の「…じゃん」や「…べえ」の圏内に入るようです。
(私は「…じゃん」をよく使います。千葉にいた頃は「…べ」もしばしば使いましたが。)



日本語は、古代から現代まで非常に変化の激しい言葉だというが、僻遠の地方には古い言葉遣いが残ることがあるという。(秋田や青森は、現在の交通網からは僻遠であるが、江戸時代の北前船は、日本海の沿岸航行による輸送だったため、上方の文化などが相当入り込んだとも言われるので、時代時代で僻遠度合いは異なるのだろうが)
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by newport8865 | 2006-01-15 20:17 | 言葉 方言
平山郁夫の出世作「仏教伝来」シリーズが収蔵されていることは、結構知られている情報でしょうが、公式ページでは全く宣伝されておりません。電子展示室(収蔵品目録)にも載っていないのは何らかの理由があるのでしょう。また、この美術館の収蔵品の多くが、佐久市出身の「美術年鑑」社長だった油井一二氏のコレクションだということもあまり明瞭になっていません。

「平山郁夫 仏教伝来」で検索すると、これとかこれとかこれのように「佐久市立近代美術館蔵」と明記されて出てきますし、普通の観光案内にも目玉作品として紹介されています。

この公式ページは、宣伝が下手なのか、それとも「知る人ぞ知る」でいいと思っているかでしょうね。

ただ、この「仏教伝来」は有名作で、上記のような平山郁夫展に貸し出されることが多いようで、いつ行っても鑑賞できるというのではなく、事前に電話などで展示の有無を確認しておくことが必要でしょう。
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by newport8865 | 2006-01-13 20:51 | 名所・旧跡 案内
今年の干支(えと)にちなんで、上野動物園からの依頼により、川上犬の仔犬が3頭、上野動物園に貸し出され、この1月9日まで公開され大人気だったという。

この川上犬の産地(というのか?)川上村は、千曲川(信濃川)源流の村として知られている。主要街道の佐久甲州街道の道筋からも外れているため、往古は人や物の往来は相当閉ざされていたようである(金峰山の大弛峠、信州峠、野辺山を越えれば甲州であるし、三国峠を越えれば秩父なのでそれなりの交流はあったようだが)。

明治生まれの文豪島崎藤村は、小諸義塾の教師を務めていたおり、千曲川河畔を遡る小旅行を何度かしており佐久の各地に足跡を記しているが、その紀行を散文の「千曲川のスケッチ」(青空文庫へのリンク)というエッセイにまとめており、その中で川上村にも触れている。ただ、実際には足を踏み入れたことがなかったらしい。下記の引用部分が、川上村についての記述だが、川上村の人々にとってはあまり愉快ではないものだろう。ただ客観的にみれば、明治30年代の島崎藤村の在小諸時代はもとより、佐久の山奥の村村の暮らしは太古からこのようなものだったのではなかろうか?

ここから更に千曲川の上流に当って、川上の八カ村というのがある。その辺は信州の中でも最も不便な、白米は唯病人に頂かせるほどの、貧しい、荒れた山奥の一つであるという。


(川上の八カ村というのは、現在大字地名の 御所平、原、樋沢、大深山、居倉、秋山、梓山、川端下のことを言う。) 

旧石器時代の馬場平遺跡や、縄文時代の大深山遺跡が残されている川上村ではあるが、水田耕作が農業の中心となってからは、高冷地ゆえの貧しい苦労の多い生活を長く余儀なくされたのだろう。そのような時代に、人々の狩猟を助けたのがこの川上犬だったわけだ。(大深山遺跡などから犬の埋葬跡などが発見されれば面白いのだがどうだろうか。)


川上犬は、伝承としては秩父多摩国立公園に属する深山のオオカミと飼い犬が交配した子孫だと言われ、猟犬として勇敢で、飼い主への忠誠心が非常に強く、一人前となった成犬を別の土地の人に贈ったりすると、元の飼い主の家に戻ってきてしまう、という習性を強く持つという。(信濃毎日新聞「しなの動植物記」) 

ただ、以前、ニホンオオカミのこと調べたblog記事を読んだことがあるが、もともとオオカミと犬が分かれたのはほんの1万年ほど前のことで、遺伝子レベルではオオカミと犬はまったくの同じ生物だとのことだ。写真を見たが、以前ネットで見た多摩動物公園のシンリンオオカミの幼獣とそっくりだった!

このblog記事に張ってあるリンクを辿っていったところ、「日本の地犬」という網羅的なページがあった。川上犬が属する「信州柴」についても書かれている。

ところで、今回の上野動物園での公開は、Blogでも結構話題になっていたようだ。

テクノラティの「川上犬」での検索結果
http://www.technorati.jp/search/search.html?callCode=-324.9191&queryMode=main&query=%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E7%8A%AC&language=ja

Oh~Wan Da Four Life (http://diary.tonten.chu.jp/?eid=69156) から川上犬の部分を全文引用させていただいた。(朝日新聞の記事のようだ)
東京・上野動物園。戌年の今年初め、一番人気は天然記念物「川上犬」だった。
公開最終日の9日には約1千人が会場に詰めかけた。
「干支にちなんだ動物展でこれほどの人気は初めて」と飼育担当者も驚いた。
 川上犬は秩父山地や八ヶ岳など標高2千㍍級の山々に囲まれた長野県南佐久郡川上村が主な生息地。
体高35~45㌢。信州系の柴犬である。「信州柴」の一種で猟犬だった。
1921(大正10)年ごろに県天然記念物に指定された。
威厳のある容姿から日本オオカミの血を引くとの言い伝えもある。
交流が制限されていたことから交配がほとんどなく純血が保たれてきたらしい。
 35年、国鉄小海線の開通による森林伐採のため外から人が流れ込んだ。
洋犬も一緒に入り、雑種化が進んだ。戦時中は食糧難から軍による撲殺命令も出た。
絶滅したかに思われたが、八ヶ岳に住む老人がオスとメスを保護していたという。
 現在の川上犬は、その子犬をもとに村人が川上犬に近い犬との交配を繰り返したものだ。
村内では現在50~60匹いる。保存会会長を務める藤原忠彦村長は
「完全復活には長い時間がかかるだろうが焦らずに純血度を高めていきたい」と話す。(以下略)

~『朝日新聞』より


純血度を高めるということは、遺伝病のリスクが増えることなので、困難な課題だと思う。天然記念物ではあるが、本来飼い犬は天然の産物でなく、人為の産物ともいえるものなので、困難さがつきまとうのだろう。大風呂敷的に言ってしまえば、DNA的にはチワワもピレネー犬(グレート・ピレニーズ)も同じ犬なのだから。
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by newport8865 | 2006-01-13 20:16 | 雑談
新海三社神社への参道の入り口にあたる場所、佐久市(旧 臼田町) 田口に、非常に小規模な「五稜郭」と称する城跡(別名竜岡城と称する)があります。現在、城跡は、小学校の校舎と校庭になっています。

今回調べていたところ、この城と田野口藩(竜岡藩)は、江戸時代の末(幕末)に出来たものとのことで、驚きました。

「松平(大給)乗謨(のりかた)の時に信濃田野口に移り、一代で明治維新を迎えた。」

松平(大給)乗謨(のりかた)についてはここが詳しく、竜岡岡城についてもよくまとまっています。

おぎゅう(おギフ)【大給】
姓氏。三河国賀茂郡大給に住した豪族で大給松平氏ともいう。始祖は物部尾興の裔が源頼朝から荻生庄の地頭に補任された荻生氏であるといわれる。乗元から代々大給城主となり、家乗が徳川家康に仕え、上野那波郡内で一万石、のち美濃高洲・浜松を経て館林六万石。さらに佐倉・唐津・鳥羽など転々と移封し、明和元年三河西尾領主となる。幕末には老中となって明治に至る。信濃竜岡・美濃岩村・豊後府内の大給松平氏はともに支族。

Kokugo Dai Jiten Dictionary. Shinsou-ban (Revised edition) ゥ Shogakukan 1988/国語大辞典(新装版)ゥ小学館 1988


五稜郭は、函館のものが有名で、こちらは規模も大きく、戊辰戦争で実戦に用いられたのですが、龍岡城の方はそのミニチュアモデルのようで、このような信州の僻地に建設した意味があまり分かりません。

函館五稜郭の方が龍岡城五稜郭よりも先に建設されたようですから、ミニチュアモデルとして先に作ったということもないようです。余計その理由が分かりません。

1864年(元治元年)3月 新陣屋(五稜郭)建設着工
1867年(慶応3年)4月 新陣屋竣工

五角形の1辺の部分の長さでみると、函館が約300mであるのに対し、龍岡城は約150mでほぼ半分。面積で言えば、およそ4分の1ということになり、ミニチュアサイズといっても良い位。


武田斐三郎は、五稜郭築城設計及び監督・函館奉行支配諸術調所教授役。
五稜郭は我が国はじめての洋式築城で、安政4年着工、7年の歳月を費やして、元治元(1864)年に竣工しました。のち旧幕府脱走軍がこの城に拠り、箱館戦争の本城となりました。
 http://www.hakodate-jts-kosya.jp/p_goryo_hi.html

これらを改めて調べる前には、田野口藩は、新海三社神社の祭礼のために設けられたのではないかという頓珍漢な仮説を考えておりましたが、まったくの妄想でした。
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by newport8865 | 2006-01-13 20:13 | 名所・旧跡 案内
昨日本屋で本を探していたら、偶然「佐久」の文字が目に飛び込んできた。

手にとってみると、「佐久に伝わる歌の風土記 北佐久編」 という表題で、著者は 小宮山利三 となっていた。

どのような著者かと経歴をみると、中学・高校音楽の教師とあったので、記憶の糸を手繰ってみると、多分自分が中学校時代に音楽を教えていただいた方に行き着いた。おそらくそうだろう。

バリトンの美声の持ち主で音楽についての素養も深く、油絵もよくした方だったと思う。

内容は、ちょうどバルトークとコダーイが、ハンガリーとその周辺で民謡研究した手法と同様らしく、テープ録音したものを楽譜におこしたもののようだ。昨日記した「道祖神の御年始」も採譜されていた。

おそるべきスピードで失われていく古くからの伝承をこのような形で記録しておかれるのは非常に重要な仕事だと思う。
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by newport8865 | 2006-01-12 20:50 | 雑談
更科、埴科の地は、森将軍塚の古墳以外にも、周辺の山の山頂、稜線部分に多くの古墳があり、いわゆる古代科野の国の中心だったとされる。

ところが、この地には、千曲川の対岸に、武水別神社という比較的規模の大きい神社があるが、あんずで有名な森の方には、由緒のある神社がないように思える。

王権と神社という点から少々不思議な感じがする。
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by newport8865 | 2006-01-12 20:34 | 地誌
新海三社神社の主神 おきはぎのみこと を googleで調べてみたところいくつか興味深いサイトがみつかった。

◆八千穂(佐久穂町)でセミナーを開いている方の面白いサイトがあった。
日本地震予知協会Webサイト ~雲にきこうよ~以下、神名の漢字表記は原則としてこれによる)の子興波岐命(オキハギノミコト)が
建てたという新海神社に残っている。このように諏訪神社と深いつながりがある新海神社
からは、旧暦の正月頃に蓼科山頂に日が沈むのが見られる。 ...

◆このページは普通の旅行記かと思っていたが、「直さんの『中央構造線と古代史を考える』という壮大な仮説ページのうちの一ページだった。
新海三社神社佐久の新海三社神社は、佐久地方を開拓したといわれるオキハギノミコトを主祭神と
してまつっている。 オキハギノミコトは諏訪神社に祀られるタケミナカタの子供である。
タケミナカタは、オオクニヌシノミコトの子供で、天孫族の出雲の国譲りの争いに抵抗 ...

古代鉄関連の地名 その1 には 砂鉄に関係のある地名として 「須坂」、ダイダラボッチが産鉄関連の民話とされている。

また、佐久の茂来山(もらいさん)については、「茂来山(モライサン)鉄山遺跡 : 江戸時代に経営された製鉄跡」として紹介されており、諏訪の守屋山(モリヤ、モレア、守屋、守谷、守矢)を想起するという示唆的な記述があった。モライサンは、蓬莱山(ほうらいさん)に似ている山名くらいに思っていたのだが、モリヤの当て字という指摘はなるほどと思う。

文明・技術の主要な要素である道具:石器(縄文時代の黒曜石の産地は諏訪に近い和田峠の星糞遺跡など!)から、金属器への進歩・伝搬と、古代の神々の征服・被征服神話・伝承には確かに何らかのつながりがあるだろう。出雲の荒神谷から大量に出土した銅剣。その後の製鉄によるより優れた道具である鉄器。狩猟採集経済よりも定住農耕経済の方が人々の生存に有利という判断はあったのだろうが、優れた道具・武器を持つ人々により、劣った武器を持つ人々が侵略・吸収・追放されたという歴史でもあるだろう。

諏訪神話は次のように解釈することも可能だろうか?
モレヤ神(ミサグチ神)を奉ずる縄文系の石器を道具としていた狩猟・採集のグループが古くから諏訪の地に住んでいた。諏訪湖の後背地である八ヶ岳の西南麓の豊富な縄文遺跡群。和田峠の黒曜石。

その人々が、出雲・安曇系?の銅器を用いるプレ弥生系?農耕グループ(タケミナカタノミコト、オキハギノミコトなどがシンボル)に侵略・吸収され、この農耕グループが大きな勢力を持ち、周囲の地方(佐久も含む)を侵略・吸収していった。

そこに、いわゆる天孫系の鉄器を用いる弥生系の水田農耕グループが九州、畿内から勢力を伸ばし、ついに出雲・安曇系の諏訪の勢力と衝突し吸収。鎮魂のために諏訪神社に前勢力のシンボルであるタケミナカタノミコトなどを祀った。前代の勢力は、荒ぶる神として祀らなければたたりをなすものとして神鎮め儀式を行なったのではなかろうか?ただし、古いモレヤ神信仰も消滅せずに継承され、それが諏訪大社に残る、御柱の祭儀として今に伝わっているのではなかろうか?


ところで、オキハギノミコトが佐久の「開拓神」とされているということは、農耕技術の伝承者ということにもなるだろう。佐久は、600mから1000mにいたる高地ではあるが、千曲川の沖積地で、水利も比較的よいため、相当古い時代から土地を開拓し畑や水田が開かれていたのではないかと思われる。新海三社神社も諏訪大社とパラレルで、先にミサクチ神が祭られ、その後オキハギノミコトをシンボルとするグループにより農耕がもたらされ、その後やは天孫系のグループにより水田農耕がもたらされ、オキハギノミコトグループを神社に祀ったということかと思われる。

新海神社の謎長野郷土史研究会機関誌
「長野」第211号(2000年5月) (500円)在庫あり 注文のページ

西本願寺坊官下間少進家伝来の善光寺如来分身仏・・・・・・・北川 央
松代藩山中代かき馬と領内牛馬数・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・古川 貞雄
善光寺歩行役一件・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・仁科 叔子
善光寺式刀印について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・福島 貴和
続「古犀川」の記・・・仁和三年の大地震・・・・・・・・・・・・・・・・・・池田 三夫
新海神社の謎・・・その創建・興波岐命・東本殿について・・・・市川 武治
桑原のあたけ人形・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・堀内 暉巳
小諸牧野侯の系譜・・・五代将軍綱吉に関わって・・・・・・・・・・・翠川 渡
善光寺式黄金仏・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・小林 計一郎
日本木地師学会について・・・研究と実践・・・・・・・・・・・・・・・・・楯 英雄
ピカドン爆弾と金鵄・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・関川 喜一郎
絵で読む平家物語(18)
・・・六ヶ度軍・三草勢揃・三草合戦・老馬・一二之懸・二度之懸・坂落・・・小林 一郎・小林 玲子
(口絵)善光寺式黄金仏
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by newport8865 | 2006-01-12 20:10 | 神話 伝説 昔話
諏訪大社の主祭神 たけみなかたのみこと を GOOGLEで検索した。

中央構造線と関係づけた面白いサイトを発見した。
アンバマイカHome>遠山郷事典>中央構造線とは>(2)タケミナカタ・ロード

 
本居宣長は、阿波国に名方郡名方郷があり、そこに多祁御奈刀弥(タケミナトミ)神社があることを指摘しています。建御名方命は建御名方富命(タケミナカタトミノミコト)とも呼ばれていますから、建御名方の名は阿波国名方に由来するのではないか、という主張です。
 多祁御奈刀弥神社は現在も名西郡石井町に現存し、建御名方命と、その妻の八坂刀売命を祀っています。石井町は吉野川の南岸にあり、この吉野川に沿って中央構造線が走っているのです。


本居宣長の「古事記伝」が重要であるようだ。

記念館のホームページはここ

なお、建御名方命 は 訓み方は、「たけみなかたのみこと」 が正しいようだが、ネットでは 「たてみなかたのみこと」と訓む例が非常に多い。猛々しいという意味で「たけ」という名前らしいが、それなら「武」の字や「猛」の字の方が適当だと思う。このみことのライバル「たけみかずちのかみ」のたけも「建」を当てている。


たけみなかたのかみ【建御名方神】
日本神話の男神。大国主命の子。天照大神の使いの建御雷神の命に服さず力くらべをしたが負け、信濃国(長野県)諏訪湖まで逃れ、同地に鎮まったという。
Kokugo Dai Jiten Dictionary. Shinsou-ban (Revised edition) ゥ Shogakukan 1988/国語大辞典(新装版)ゥ小学館 1988


参考:
たけみなかたとみのみことひこがみわけじんじゃ【健御名方富命彦神別神社】
長野市城山にある旧県社。祭神は健御名方富命、彦神別命。上古、現在の善光寺の所に創立。持統天皇五年諏訪大社とともに勅祭が行われたが、善光寺に吸収されて年神堂として存続、明治一二年現在地に再興。水内大社。

たけみくまりじんじゃ【武水別神社】
長野県更埴市八幡にある旧県社。祭神は武水別神ほか。

たけみくまりじんじゃ【建水分神社】
大阪府南河内郡千早赤阪村にある旧府社。祭神は天御中主命ほか。

たけみかずちのかみ(たけみかづち‥)【建御雷神・武甕槌神】
日本神話の男神。天照大神の命を受けて出雲に降り、事代主神・建御名方神を服従させ、大国主命に国譲りをさせた神。神武東征のとき、霊剣を天皇に献上したともされる。

Kokugo Dai Jiten Dictionary. Shinsou-ban (Revised edition) ゥ Shogakukan 1988/国語大辞典(新装版)ゥ小学館 1988


諏訪大社研究記


神話と神々の系譜については 「八百万の神々を想う」 が大変詳しい。

それにしても、諏訪大社が、江戸時代に創建された長崎の氏神として尊ばれている諏訪神社のように全国に末社を多く従えることになったのは、どのようないきさつがあるのだろうか?タケミナカタノミコトを共通祖先とする集団が数多かったということだろうか?布教集団の存在は?秘教的な共通信仰の存在?

諏訪大社についてのリンク集

WIKIPEDIA 諏訪大社

◆たけみなかたのかみ で検索しても多くヒットする。

神々ファイル 建御名方神


◆神社関係のホームページ 非常に参考になる
神奈備にようこそ! 延喜式神名帳など参考になる。

玄松子の記憶
多くの神社を訪問された記録。詳しい解説、写真があり、参考になる。

悠久 古事記の現代語訳など参考になる。


信州大学の繊維学部の方の面白いエッセー「むかしむかしの信州のことばとひとびと」があった。佐久の平尾への言及がある。


縄文遠望という興味深いホームページを見つけた。

この中に 「裸の縄文人」「諏 訪 の ミ シ ャ グ ジ」と題して、佐久町の石棒についての考察が繰り広げられている小論があった。
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by newport8865 | 2006-01-12 20:05 | 神話 伝説 昔話
延喜式 神名帳には多くの神社が出ているが、自分にとって比較的親しい神社に 須坂市の墨坂神社がある。
当社は其の草創年月不詳と雖、住古大和部族移住に際し同国宇陀郡榛原より墨坂神を 遷祀したるものなり。

とあり、

すみさかじんじゃ【墨坂神社】
(1) 長野県須坂市にある旧県社。祭神は墨坂神・建御名方命。
(2) 奈良県宇陀郡榛原町にある旧県社。祭神は墨坂神。

Kokugo Dai Jiten Dictionary. Shinsou-ban (Revised edition) ゥ Shogakukan 1988/国語大辞典(新装版)ゥ小学館 1988

と国語大辞典にも出ているほど。

須坂の墨坂神社は、それが転訛して須坂となったという伝承がある神社で、八幡町に墨坂神社(八幡神社)があり、芝宮に墨坂神社(芝宮)があり、その距離は一キロほど離れている。それぞれ大きい社域を持っている。現在では全く切り離された別の神社のようであるが、往古は上社下社のような関係の一社だったのであろうか?

この墨坂から須坂の転訛については、異説があるようだ。
一見墨坂(古代の神社)―須田(中世の地名や氏)―須坂(近世の地名)へ転訛のように思われるが、須田氏は墨坂神社勧請以前から存在していたと考えられ、発祥は別。
となっているが、須坂の墨坂神社は、延喜式内社であり、下記にあるようにそれ以前の天応年間(西暦781年)に奈良の墨坂神社の社領とされていたということで、創建は少なくとも延喜年間以前のはず。須田氏についてはここに詳しいが、奈良時代以前に須田氏が遡れるとは考えがたい。最近の自治体合併ではないが、須田郷と墨坂神社の須と坂をとって須坂となったとも考えられる。また須田城は現在の臥竜山にあたるらしい。

一方この須坂の墨坂神社の本社が上記(2)の奈良県にある墨坂神社であるという。

http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page208.html 
には、
又新抄勅格符抄によれば天応元年十月十四日(奈良朝末期で西暦781年)『墨坂神一戸信乃』と記されており現在御分社として長野県須坂市に墨坂神社が二社あるところから天応年間には信濃にまで神領があった大社であったことがうかがわれる

とあり、須坂の神社がすでに奈良時代に鎮座していたことが分かる。

ところで、この祭神の 墨坂神であるが、非常に古い神であるらしい。

司馬遼太郎のエッセイ、対談などで、奈良県のこの地方は大和朝廷にとってかつてはまつろわぬもののすみかだったらしい。奈良の西方の葛城山などは異端の神だった(役の行者の修業地)ということが述べられているが、この墨坂神もその古さからそのような異端系(反神武系)の神だったかも知れない。

ともかく、大和の東方の山深い宇陀郡の古社(なぜか延喜式内ではないらしい)と信濃の北方の善光寺平の東方の須坂が、往古確実なつながりがあったというのは非常に不思議なことだ。

(長野の善光寺の起源自体、飛鳥時代当時の中心地、大和、難波での仏教弾圧に関係しているというのだから、往時信濃の北部と畿内に往来があったことは理解できるのだが。「皇極天皇元年(642)信濃国麻績(おみ)里の本多善光(一説に若麻績東人(わかおみのあずまんど)とも)が堂宇を創建」 麻績 おみという地名が長野と三重の松阪付近にあるのも面白い)


なお、自費出版で、「八十歳からの自由研究(二) 日本の鉱物と地名 墨坂神社私考・鉄・朱」が出版されていることが分かった。

目次は以下の通り。この目次を読むと、砂鉄と須坂、奈良の墨坂神社との関係などが書かれているようだ。

墨坂神社私考 興津正朔
 序 章
一、墨坂神社の概略
二、芝宮と八幡宮
三、須坂と墨坂
四、日本と鉄の謎
五、記紀の謎と鉄
六、大倭の統一と古墳
七、崇神と墨坂神
 第一章 須坂と墨坂神社
一、須坂と砂鉄
二、芝宮
三、墨坂神社と須坂
四、論社八幡宮と周辺
 1八幡宮
 2周辺の史相
 3祠官山岸家
五、須坂藩と墨坂神社
 1氏子集団
 2須坂藩と墨坂
 第二章 墨坂神社と由緒書
一、紛争の墨坂神社
二、墨坂神社由緒書
 1社格
 2芝宮墨坂神社由緒書
三、終戦後の墨坂神社
 終 章
 結 語


鉄というと、飯山近郊木島平の弥生時代の遺跡で発見された朝鮮半島製の鉄剣を思い起こす。

最近の発掘から見た東日本

長野県の下高井郡木島平村の根塚遺跡、これから大問題になるだろう遺跡の資料を載せました(図19)。木島平村はスキーで有名なところで、東京の調布市と姉妹都市の関係にある村です。

 この根塚遺跡は、一〇〇メートルと五〇メートルくらいの楕円形の低い丘を持つ、盆地の水田の中にポツンとある遺跡です。この根塚と呼ばれる丘の中央部から発見された墳丘墓は長方形で三段のテラスを造っていますが、長方形の斜面には張石が一面に張ってある、弥生時代後期のあまり例を見ない墳丘墓です。この図面からははっきりしませんが、長方形プランの三段のテラスになっている、その平面に箱清水式の土器、北信濃地方の弥生時代後期の土器が副葬品として複数納められていました。ガラス玉も出てきましたが、さらに三年前に、いちばん下のテラスの埋葬遺壙からナンバー4、5という鉄剣が二ふり出てきました(図20)。

 その鉄剣を見ますと、長い方が七四センチくらいのものですが、脇から右手に一本突起が出ていて、先端が丸くなっています。さらに柄頭、握るところも丸くなっていて、錆びて固まっている。レントゲン写真を撮りますと、図20右の6、7のように、そこは渦巻状になっていて、柄頭のところは鉄を二つに割いて、内側にクルクルッと渦巻にしています。さらに右側から一本そいで脇に出し、それも渦巻にしている。

 私は木島平村から連絡を受けて、この写真を見せられました。私は、これは伽耶の鉄剣だと直観いたしました。しかし私は日本考古学が専門ですから、「明治大学の大塚が伽耶の鉄剣だと言ったって、専門じゃないから……」と言われるといけないと思いまして、親しくしている九州大学の西谷正教授に来てもらいましたら、西谷さんは「これは伽耶のだよ」と言うのです。西谷さんはソウル大学に二年留学していた人ですから、西谷さんが伽耶の剣だというのは間違いないわけです。

 それにしても、弥生時代、二世紀から三世紀代前半に、朝鮮半島の南の伽耶、洛東江下流域の釜山あたりから日本列島にこの鉄剣が運び込まれて、木島平にまで来ている。木島平村から千曲川、信濃川を下ると、すぐ日本海です。専門家がご覧になって、これは朝鮮半島南部の伽耶からの鉄剣であると言われますと、従来の日本考古学の理解、つまり伽耶の地域から対馬、壱岐、北九州、瀬戸内から畿内へ入り、そして畿内勢力によって、後の東山道を通って信濃の国にもたらされたという理解が崩れてしまうということになります。

 つまり私は、朝鮮半島南部の伽耶から人と新しい技術が日本海沿岸にダイレクトにやってきているのだと、そう考えているのです。海は文化を隔てるものではなく、むしろ非常にスピーディーに人と物を繋げるものであると理解したいと私は思っていますが、こういうルート、つまり大和政権や北九州を媒介にしないで越の国にダイレクトにやってくるルートがあったとすれば、これから東日本の古代文化の理解は相当考え直さねばならないだろうと、そう思います。


この木島平村は、飯山市の東隣。近世千曲川水運時代には、飯山から長野あたりまでは川舟の輸送が行なわれていたという。

なお、須坂には、古くから笠鉾祭り(祇園祭り、牛頭天王=スサノオノミコト)という行事が伝わっている。もともと京都の祇園社(八坂神社)が発祥の祭りで、山鉾巡行で有名だが、須坂では小規模な笠鉾というものを各町内が持って練り歩く。天王おろしという儀式もあるという。珍しい民俗行事だが、この由来は?

ところで、八坂というと ヤサカトメノミコト(諏訪大社のタケミナカタノミコトの妻)が思い浮かぶが、八坂神社とヤサカトメノミコトは関係があるという検索結果はないのだが、何らかの関係がないのだろうか?
面白いQ&Aがあった。ここに、長野では上田の国分寺で有名な「蘇民将来」は、もともと八坂神社の行事だとあった)

また話が逸れるが、上田旅行(真田ゆかりの地巡り)VOL.1に、松代の皆上山の話題が出ていた。

また、逸れるが、ヤサカトメノミコト関係で北海道の諏訪神社

ところで、この建御名方命、記紀神話のうち「古事記」には国譲りで重要な役割りを演じるのだが「日本書紀」には、まったく登場しない。オオクニヌシの神統譜にも入っていないという、ちょっと謎のある神サマ八坂刀売命にしても、その名前の解釈からするとどうも山の女神サマらしいのだが、彼女(?)の神話伝承は存在しない。

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by newport8865 | 2006-01-11 20:32 | 地誌
諏訪大社の祭神 建御名方富命・八坂刀売命・事代主神。

新海三社神社の祭神 興波岐命・建御名方富命・事代主神。
http://www.dynax.co.jp/sinsen/culture/jinjya/j_shinkaisanjya.html

神代の昔、興波岐命が父君建御名方富命(大国主命の第二子・諏訪大社の主神.事代主命は、建御名方富命の兄君)を補佐して科野(しなのの)國を作り、後佐久地方の洪水を治め沃土を広め、その功を終えてこの地に鎮座された。古くは佐久郡を巡幸し、祭事は最も尊厳に行われた.西本社は、相殿造りで、源頼朝の命により誉田別命(八幡大神と称せられる応神天皇のこと)を奉斎した.源氏の尊崇が篤く、また武田信玄も社殿造営など深く崇敬し、起請文と鰐口・梵鐘を寄進した.佐久の一の宮


諏訪も佐久も国つ神系を祭神とする神社であり、大国主の命の息子、孫を祭ることで共通するが、諏訪神社という名前にはならなかったのはなぜか?何かルールがあるのだろうか?



「神奈備にようこそ!」の延喜式神名帳 神社一覧
東山道神 三百八十二座 大 二座(就中五座。預月次。新嘗祭案上。)小 三百座
  近江、美濃、飛騨、信濃、上野、下野、陸奥、出羽
の信濃の国では、信濃國:48座 大7小41 があがっている。

うち佐久郡はわずか三社しかない。(延喜式は、西暦927年に成立。なお、相当古い神社でも式内社でないものもある。それらを式外:しきげ というらしい。石清水八幡宮、北野神社など)

なお、諏訪大社は式内の大社として載っており、また佐久の新海三社神社と何らかの関係があると思われる甲斐の国の佐久神社も式内社である。

ちなみに
佐久郡[サク]:3座 並小 (なべて小社と訓むのだろう)

英多神社[エタ](佐久) 訪問したことあり。山間の物寂しい神社だった。この英多は字名の英多澤によるものらしいが、神社が先か地名が先か?祭神はタケミナカタノミコトであり神紋も諏訪大社系の梶の紋なので諏訪社の流れだろう。 (なお、英多の字は、あがた の美称でもあるという。Google で 英多 語源などで検索するとヒットする。なお、信濃国のあがたについては、信州考古学探検隊のページにあった。)

長倉神社[ナカクラ](軽井沢) 当時の神社は浅間山の火山灰に埋もれてしまったらしい。

大伴神社[オホトモ](望月)

寛政の時代、佐久市にある新海神社は、佐久郡内一の大社であり、
佐久郡内の各神社の神官は、新海神社の神事へ奉仕することになっていたが、
当社英多神社・長倉神社・大伴神社の三社は式内社であることを理由に、拒否。
それに対し、新海神社は寺社奉行へ訴訟を起こすという事件があった。

玄松子さんのページより

新海神社は、佐久一宮とされるが、その成立はいつ頃だろうか?ネットには詳しい記事がまだ見つからない。比較的新しいのかも知れない。記録的には、源頼朝の命によって「誉田別命」(応神天皇)を合祀
したとされるから、それ以前からあったことは確かだ。また佐久神社は、甲斐源氏の末である武田晴信(信玄)にも崇拝されたというが、武田氏による佐久侵攻に伴って甲斐の国の佐久神社が分社されてきたという可能性はないだろう。

神社のある裏山には、復元された古墳がある。幸神(さいのかみ)古墳群というらしい。

さいのかみ と言えば、賽の神さいのかみ【道祖神・幸の神・斎の神・塞の神】=さえのかみ(道祖神)である。つまり、ミサクチ(ミシャクジ)の神に繋がる。また、銅剣を多く出土した出雲の荒神谷を連想させる。現在リンク切れのような状態だが、かろうじて下記の記述を拾い出せた。

幸 神 古 墳 群 さいのかみ こふんぐん
 指 定  町史跡  昭和47年5月5日
 所在地  臼田町大字田口4804外
      (幸神、外九間、中原)
 所有者  新海三社神社

 雨川右岸に形成された広大な扇状地の台地上には、臼田町で最大の面積
(約15万㎡)を有す原遺跡が所在している。遺跡地内には、幸神、外九間、中
原の各地籍に12基の古墳が存在し、これを幸神古墳群と総称している。古墳
群の中で比較的原形をとどめている4基が町史跡として指定された。 

 写真に示した幸神1号古墳は、墳丘が3分の2程度残っており、臼田町に所
在する計50基の古墳中では、原形をとどめている点で最高の資料である。築
造当時における12基の古墳は、幸神1号古墳とほぼ同規模の状態の墳丘が
築かれていたとおもわれるが、盗掘や耕作の関係から徐々に削りとられ、石室
が残っているのは指定された、幸神1・2号古墳、外九間1号古墳、中原1号古
墳の4基のみとなった。

 史跡指定の4基の古墳は、墳丘径10~12m、高さ3~3.5mを測り、玄室
は幸神1号古墳が最大で3.6×3.2mを測る。その他は2m×3m前後の玄
室が築かれている。羨道は、長さ2.8m前後、幅1.5m前後を測る。幸神1号
古墳は羨門から羨道の部分が土中に埋もれているため、原形を残していること
が予想され構造の手がかりを得る貴重な資料となるであろう。

 古墳の築造年代は、調査が実施されていないため明らかではないが、昭和63
年実施した原遺跡の発掘調査で、古墳時代末期から奈良時代にかけての大集
落の存在が認められたことにより、この集落の人々が築いた古墳であると考え
られる。




このころからこの地は古墳時代からの信仰の地だったのであろう。いわゆる「佐久の王」の墳墓だったものだろうか?

神紋については、残念ながら網羅的によくまとまった玄松子さんのリストに新海三社神社がないので、他の紹介ページを参照すると、本殿の垂れ幕?に紋が見える。これは、立梶の葉なので、紋から言っても諏訪系だろう。


また、諏訪の「先宮神社」と佐久の新海神社が関係するという興味深い記述があった。ここに述べられている内容は少々理解しにくいところがあるが、文字そのものは明らかに「佐久」 「新海」を含んでいる。 
●先宮神社の社名の由来
先宮神社の社名は、「佐久新海(佐久ノ新海)、佐久新海明神(佐久新開明神)、さき志んかい、真海社、新海宮社、鷺宮(鷺宮神社)、鵲宮、先宮(先野宮)、先宮社、先宮神社」と称せられてきております。 


ただし
●先宮神社の創立
 先宮神社については旧記が散逸していて正確な資料がなく傳えられている口碑によるしかなく、神社誌を綴る事は大変難しいこてであります。その口碑も正確に伝承されたものか、後世のものであるか判断に苦しみます。前述のように鎮座の前提となった原始時代における諏訪地方の信仰状態や、祭神奉祀の経過を考えながら推測する以外に方法がないと思われます。
とあるように、口碑自体が後世にさまざまな影響のもとに変容していったこともありうるので、上記の「佐久新海」という文字面も後世諏訪と佐久との交流が盛んになった時代に形成されたものということもありうる。


さらに、
深谷市では利根川に近い大字新戒(しんがい)の古櫃神社(http://homepage3.nifty.com/nireyamajinja/ohsato/26kohitu.htm)が秦氏の祖神を祀ったと由緒にありますが、平成CDではその「本領」とする長野県南佐久郡臼田町大字田口の新海三社神社の由緒に秦氏のことはありません。

神奈備にようこそ」に、この記述あり。

新海三社神社については、このような展示もあったらしい。(国立歴史民俗博物館の「なにが分かるか、社寺境内図 平成13年10月2日(火)~12月9日(日))このような貴重な記録が残されているということからみても、この神社の繁栄がしのばれる。

信州の神社 http://www.dynax.co.jp/sinsen/culture/jinjya/ に紹介あり。

ところで、佐久の風はふるさとの風は、佐久に関する素晴らしいページだが、新海三社神社の紹介があり、ここに非常に示唆的な記述があった。

「うえ右の写真中央がが「にいさく」の神、「與波岐命」を祭っ東本社、後に三重の塔が聳える。説明には別名「御佐久地神」也「佐久」は「サク」拓くことを意とする。とある。」


御佐久地神!読み方次第では、「みさぐちのかみ」、つまり古代信仰で耳にする、みしゃぐちのかみ、みさぐちのかみのことではないか! ミサグチノカミについては、諏訪神社の縁起にも深い関係があるとされ、自分の記事でも面白い記述としてリンクしておいた。縄文時代にも遡るという古い信仰だという。

ミサグチ神の研究では、今井野菊さんという方が先駆的な研究を行っているという

信濃国の天白神、ミサク神研究者である今井野菊氏の報告によりますと、ミサク神(ミサクチ神)も諏訪の固有神ではないことがわかります(同神をまつるのは、長野県675社、静岡県233社、愛知県229社、山梨県160社、岐阜県116社とされますが、三重県には140社が確認されるとのことです…清川理一郎『諏訪神社 謎の古代史』彩流社)。三重県=伊勢の地にミサク神の祭祀があることは、天白神と同根の神であることを示唆しています。諏訪のミサク(チ)神に、神宮の元神である伊雑[いさわ/いぞう]神の名が散見されることが、それを端的に表しています(小口伊乙『土俗より見た信濃小社考』)。
 東北伝説(http://www5.ocn.ne.jp/~furindo/)の掲示板 「千時千一夜──瀬織津姫&円空情報館より

古代信仰対象の「ミサグチ」の当て字 御佐久地 から 佐久という地名が生じたというのはどうだろうか?ただし、多くのミサグチ系の神社がそのような当て字は使わず、「御社宮司社、御射山社、社宮社」と表されることが多かったようだ。そうなると、これが当て字だとする根拠は弱いが、美称としてはありうるだろう。

こう書いたが、google で 「佐久 "ミサクチ" OR "ミシャクチ" OR "ミサグチ" OR "ミシャグチ" OR "みさぐち" OR "みしゃぐち" OR "みさくち" OR "みしゃくち"」で検索をかけたところ、このミサクチの当て字として 佐久神が用いられているようだ。諏訪大社と新海三社神社との距離的な近さ、祭神の共通性から言ってもミサクチから美称の佐久が出たということは十分考えられるのではないか。諏訪が古代信濃の中心地だったことはほぼ確実だが、佐久はそこからみると僻遠の地。僻遠の地に言葉の源流的なものが残されることはよくあることだから。 

古代であそぼ掲示板には、佐久の近津神社のことで興味深い記事が載っていた。


関東と諏訪をつなぐようにみえる近津チカツという社名の神社に注目しています。
伊弉諾伊弉冉神の前の代の青橿城根尊(アオカシコキネ=面足尊オモタル、奥方は惶根尊カシコネなど)を祀っています。
茨城や千葉に多いようで、社名は違いますが東京にも2社あり(1社はスサノオも祀る)。
面足尊(七代目が伊弉諾伊弉冉神なので第六天神ともいう)として祀られるのは古事記の神代系譜に習合させたからだと考えています(だから生き残っているのかもしれない)。

長野県佐久市にも近津神社があるので観光課に問い合わせたら昔の地名が千鹿頭だったことがわかりました。
(大蛇と池が由来の神社)
千鹿頭とは諏訪の千鹿頭神(建御名方の子)に違いなし。


また、佐久穂町(旧佐久町)の巨大な石棒(年代は不明らしいが)のこともこの検索から出てきた。

これについては、信州発考古学最前線のvol.18 佐久の日本一の大石棒
http://homepage3.nifty.com/kamosikamiti/sonota/saizensen/H14win.html
が詳しい。


言うまでもないが、神社信仰は、アニミズム的な山、川などの自然の神格化はもとより、由緒の古い神社の多くは、ある時代のその土地の開拓リーダーを神格化して祭ったのであろう。また、風水害・日照り・冷夏・地震・疫病などの災厄やたたりから免れ、食料の収獲・収穫を安定化しようという意図が強いものだろう。同じ意図から、たたりから免れるための鎮魂のための神社もあるようだ。

みさぐち信仰は、縄文に遡る土俗的な信仰に繋がるもののようだが、縄文文化が栄えた諏訪の八ヶ岳山麓、及びその裏側の佐久の八ヶ岳山麓に同様の土俗信仰の痕跡が残されていると想像することは自らの遠い祖先たちからの呼びかけ・インスピレーションのような気がする。(少々神懸り的になってしまった)

ただ、起源、由来などを調べていくと、超自然的的な記事にも突き当たることがある。信仰の世界との境界ゆえやむを得ないことだが。また、諏訪地方の考古学の偉人藤森栄一や柳田国男の名前などが垣間見える。また宗教学者中沢新一の「精霊の王」が道祖神、ミシャグチ神をテーマとしているらしい。

佐久の駒形神社についても記述あり。
ここのところ駒形神社を調べていて、長野県佐久市塚原に興味深い駒形神社があることをみつけました。ここの祭神は、「騎乗の男女二神体」だというのです。記紀に準じた祭神名は、表向きはウケモチ神としていますが、主祭神は「騎乗の男女二神体」とことわっている、珍しいケースです。
 駒形神はあとから馬神となっていきますが、もとは水神かつ養蚕神でした(詳しい話は近日に、ここに書きます)。佐久の駒形神社の祭神は、神の依代=乗物としての「馬」、つまり神馬[じんめ]を、もっとも端的に表しています。



道祖神ももともとミサクチ神から由来するものらしい。
 佐久で暮らした子どもの頃、小正月の道祖神の祭りは子ども行事としては最大のイベントだった。正月には「道祖神の御年始」と掛け声を掛け、小字(こあざ)の集落の中の家々を訪問して獅子舞をして小遣いをもらい、小正月には「かんがりや(神上がり屋?)」というドンド焼き行事を大人子どもが一緒になって祝った。お繭玉(おまいだま)と称する上新粉を練って緑や桃色に彩色した餅を木の枝にさし、神棚に飾ったのち、ドンド焼きの火にかざしてから食べた。書初めもその火で燃やして字の上達を祈った。

かんがりや については、神仮屋とふってあるページがあった。語感から、神上がり(神が天に帰る、天子が崩御する)屋かと思っているのだが。また、かんがりや を 「かんがり」と短縮している方が多いようで、結構ヒットした。「かんがり」を「かあがり」としている例もあるようだ。かがりびの転訛というふうに考える向きもあるようだ。

このドンド焼き、門松を簡単に積み重ねたり、塔のようにする形もあるようだが、私が子どもの頃に経験したのは、山から杉?の葉を多く採集してきて、各戸の門松とその杉葉で社殿の形を作り、お繭玉を飾り、それを子ども達が正月から太鼓をたたきながら神社の傍らで保ってきた焚き火の上に乗せ、ドンド焼きを開始するというものだった。その社殿の形から、神が火に乗って上がる社 = かみあがるや 転訛して カンガリヤ との推測だ。山奥の村だったので、かんがり まで略されず古形を保ったのではあるまいか? 

道祖神は さえのかみ(さえぎるかみ)と呼ばれるが、記紀神話では、イザナギがイザナミの行ったヨミの国から逃れる際に 磐石(まるい石だろうか)を投げ(さえのかみ)、杖を投げ(ふなどのかみ 道祖王をふなどのおおきみとも訓む)、地上の国に逃れたという。この辺はここに詳しい。

長野県内(旧大岡村)には非常に特異な道祖神がある。これは鹿児島の甑島に伝わる年神様 トシドンや秋田のなまはげを連想させるもの。むしろそれよりいわゆる南洋の仮面神を想像させる奇怪な面相だ。
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by newport8865 | 2006-01-10 19:39 | 地誌