ふるさと佐久


by newport8865
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30

<   2007年 06月 ( 4 )   > この月の画像一覧

標準語では、

「おやすみ‐なさい【御休みなさい】 〔連語〕(「ませ」「まし」を伴うこともある)就寝の際の挨拶のことば。

Kokugo Dai Jiten Dictionary. Shinsou-ban (Revised edition) ゥ Shogakukan 1988/国語大辞典(新装版)ゥ小学館 1988」 のように定義されている。

しかし、私の出身地である佐久地方や、長く暮らした北信地方では、「お疲れ様でした」や「さようなら」というような別れ際の挨拶言葉と同じタイミングで、「お休みなさい」を使っている。

言葉そのものは、標準語だが、用法が独特という珍しい例ではないかと思う。現在でも、同地の事業所の人などと電話で会話をする際など、夕方最後の電話などでは「お休みなさい」という挨拶を受けることがあり、とまどうとともに懐かしさを覚える。職場の人などは面白い言い方だとびっくりしている。

私の高校時代には、旧制中学のバンカラの伝統を継いだ「応援練習」なるものが全校生徒に義務付けれらており、その蛮習にはヘキエキしたものだが、その際に「おやっさい」という言葉を植えつけられた。「お休みなさい」の略語で、帰宅時に先輩などと出会うときには「おやっさい」を大声で言うように指導された記憶がある。もっとも、実際に街角でそのような恥ずかしい?ことはできなかったものだし、軟弱な私は旧制中学、高校の弊衣破帽にはあこがれたものの、バンカラには付いていけなかった。
[PR]
by newport8865 | 2007-06-29 20:52 | 言葉 方言
前回6/17(日)の『風林火山』は、新田次郎の『武田信玄』でも詳しく描かれた佐久侵攻だった。テレビドラマでは、これまでの謀略による城攻めではなく、晴信の主導による力攻めにより、佐久の豪族たちが皆殺しになった様子を描いていたが、さすがに多くの首級をさらしものとしたり、多くの捕虜を武田の黒川金山に連行したりという残酷なエピソードは避けていた。

大井とか笠原とか真田、祢津などの姓は、中学、高校のときの同級生にもあったが、当時の武将の一族がそのまま命脈をつないだ表れだろうか?

相木市兵衛は相変わらずの活躍で、また、いよいよ真田幸隆が武田に属すことになり、その家臣の春原(すのはら)一族も(現在も東御市には春原家住宅という旧家跡が史跡になっている)登場した。

真田家が後に上州の沼田にも領地を得たのは、幸隆が落ち武者として安中に居た頃に何か上州と縁ができたためだろうか?

なお、真田幸隆の息子たちが二人登場したが、昌幸は三男とのことなので、未だ産まれていないようだ。

追記:2007/06/24 今晩の『風林火山』によれば、志賀城攻めは次回になるらしい。甲府(府中、古府中)の真田館で、相木市兵衛が真田幸隆に対して「佐久がまた背いた。志賀城の笠原氏だ」と相談し、幸隆が「相木殿の同族ではないか?上州勢とも縁続きだ」と答えていたのだ。また、晴信が次回の志賀城攻めで、信虎のごとき残虐な力攻めをしようとしており、板垣信方などが懸念を露わにし、勘助の進言も退けられるようなのだ。

佐久と上州西部は、いくつかの非常に高所を通過する峠道により相当交流が活発であり、佐久の豪商といわれた神津氏(島崎藤村の『破戒』の出版を援助)や、小諸商人も、上州と信州の交易により財を成したらしい。また、高冷地ではあるが、佐久は「肥沃の地」であり、相当古い時期から米どころであったらしい。佐久の地侍の武田への不服従はそのような経済的な背景もあったのだろうし、上州との深い関係による援助を頼みにしていたこともあったのだろう。また、武田としても佐久、小県の米の確保という理由もあり佐久侵攻を執拗に行ったのではあるまいか?

その頃、佐久の新海神社はどのようなポジションにあったのだろうか?
[PR]
by newport8865 | 2007-06-19 20:46 | 歴史
私の運営している本家blog 「日々雑録 または 魔法の竪琴」の記事で、今回の帰省時に立ち寄った「浅間縄文ミュージアム」についてタイトルの内容を書き留めておいた。


5/3-5/6 クルマで帰省

余談:複数のblogを立ち上げると記事の投稿をどちらにするか迷うことがあるが、このようにリンクをすることでその欠点を補いたい。
[PR]
by newport8865 | 2007-06-08 20:40 | 地誌
『風林火山』のドラマには、井上靖の原作よりも詳しく、武田信玄による信濃侵攻が詳しく描かれている。

ドラマの主人公が山本勘助で、大団円が第5次?川中島の戦いの『鞭声粛々』での激戦と勘助の討ち死にに設定されているのだろうから、それゆえその後の信玄の西上作戦の頓挫は描かれないのだろうから、それまでのエピソードを細かく描くことになるのだろう。

佐久出身者としては、地元の地名や地元の武将たちやが多く登場するのは興味深いが、佐久の特に志賀城(城主 笠原氏)、内山城などが武田に持続的に歯向かうことの見せしめのための大虐殺にあったり、捕虜が武田の黒川金山に連行されたという新田次郎『武田信玄』の記述を想起すると、画面をみながら慄然とすることがある。

武田の支配の後、織田、徳川と支配者は代わったが、それでもその時代時代の先祖たちが何とか生き延びていてくれたからこそ、今の自分があるのだと思う。ドラマを見ながら、自分の先祖たち(450年ほど前なので、20世代以上前になるため、単純計算では2の20乗という膨大な数の先祖の延べ人数になるのだが実際は重複があるだろうからもっと少ないとは思う)はその時代、どこでどうしていたのかという感慨を持つことがある。

ところで、私の父の実家の墓地の裏山には、武田の「狼煙台」だったという言い伝えが残されている。地元の人たちの慣用的な呼び名だったかも知れない。そこは、近年地元の自治体によって公園として整備され、小規模の城(砦)跡として以前とは違うまったく明るい雰囲気の場所になっているが、私が子ども時代に祖父やおじ、おば、いとこたちに会いに何度も遊びに行った頃は、伯父や従兄もその小山の頂上方面には連れて行ってくれたことはなかったように思う。先に述べたような城跡や狼煙台跡ということが伝承されているため、少々不気味な雰囲気もあった。

この城(砦)跡の城主などは、地元の旧家の家系図や古文書からおよそのことがわかっているようだが、甲斐と信濃北部(川中島)を結ぶ狼煙台として使われたというはっきりとした史料は見つかっているのだろうか?もし見つかっていないとしてもそれが、自分の父の生家にはそのように昔話(伝承)として残っているというのは、史料だけでは歴史は記述できないということの一面の証拠であるようにも思われる。

さて、ドラマに登場する佐久から長久保にかけての大井(一族)、相木(市兵衛)、望月などは今でも地名として残されているが、諏訪や大井の残党と一緒に小諸の布引城にこもったという額岩寺(がくがんじ)という武将は僧侶の出だったのだろうが、稀な姓として印象に残っている。、どのような勢力だったのだろうか? 

p.s. 佐久平からみた風林火山 というページを見つけた。
[PR]
by newport8865 | 2007-06-07 20:09 | 神話 伝説 昔話