ふるさと佐久


by newport8865
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<   2015年 09月 ( 4 )   > この月の画像一覧

以前このブログのテーマ集をまとめたことがあった。

その中で、
(4)川上村 保元の乱の伝説 重仁親王(崇徳天皇の皇子。近衛天皇、後白河天皇の甥で、京都の仁和寺で亡くなったとされるが、御所平の大海道の山裾の神社になぜか重仁親王が祀られているという伝承があるらしい)
  御陵(みはか)山、御所平などの地名 http://www.kawakami.ne.jp/moriben/offmeetting2001/offmeetting.pdf#search='重仁親王 伝説 川上村'

川上村御所平横尾遺跡調査報告内の伝説のページ(pdf) http://rar.nagano.nii.ac.jp/file/750/20110516103753/0847%E6%A8%AA%E5%B0%BE.pdf

というテーマを書いておいた。

最近のこのブログの閲覧レポートを見たところ、「重仁親王と川上村」という検索語で検索されていたことが分かった。

そこで、改めて自分で検索をしてみたところ、なんときちんとまとめられた論文がネットで読むことができるのを発見した。たどっていってみると、学術情報発信システムSUCRAに掲載された論文であることが分かった。

直リンクは、以下のURLになる。

http://sucra.saitama-u.ac.jp/modules/xoonips/detail.php?id=BKSL060012

タイトル 悲運の皇子 : 重仁親王の流離
著者 雨海, 博洋 (Amagai, Hiroyoshi)
立正女子大学短期大学部 (Rissho Women's Junior College)

日付
出版年: 1970
作成日: 2012-11-07

とのことだ。

研究者の方の論文だけあり、手際よくまとめられていてとても参考になる。

ネットでの情報共有の利点を感じた。
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by newport8865 | 2015-09-27 14:49 | 歴史

佐久の日本酒

佐久は、最低標高がおそらく600mをくだらず、川上村や南牧村などは集落のある標高が1000mを軽く超える高冷地だが、旧称で八千穂村、佐久町あたりから臼田、野沢、浅科、小諸の御影新田まで美田が広がり、米作地として、隣国の群馬県まで米を「輸出」していたほどだったという。

八ヶ岳からの豊富で良質な美味き水、美味き米があれば、当然美味き酒が醸されることになり、いずれも小規模な酒蔵ながら、佐久地域には古くから続いている酒蔵が多い。小さい酒蔵だが、「夏子の酒」で書かれていたような大手酒造会社による樽買いや酒蔵閉鎖にもあまりならずに、けなねげに続いている。

http://www.dynax.co.jp/sinsen/sake/js_e.html

http://www.townfan.net/TownFanNet_saku_sake.htm

前の記事で書いたが、数年前の年末に帰省したおり、地元企業に勤務する弟が会社の同僚からいただいたという「寒竹」という日本酒を初めて飲んだのだが、その旨さに驚嘆したことがある。

南佐久では、旧八千穂村(現佐久穂町)の八千穂駅近くの黒澤酒造の井筒長。これこそ、父の故郷近在の酒蔵であり、故郷の酒と言っていいだろう。この黒澤家が地元の銀行八十二銀行の発祥の元の一つと聞いたことがあるので、酒蔵は地域の資本家だったのだろう。

旧臼田町の橘倉酒蔵は、佐久の政治・文芸の名門井出家が経営する。(この酒は飲んだことがない。)

その他、初鶯など文人墨客が愛すような名前の銘柄が多い。

実家の近くは、比較的大きな酒造会社の千曲錦酒造がある。

全国的に有名な酒蔵はないようだが、私が子どものころからほとんどの蔵がそのまま続いている(?)と思うので、需要と供給がそれなりにつりあっているのかも知れない。

私の高校時代の友人も「酒呑み百姓の会」なるユニークな町おこし的団体を立ち上げ、自分たちで酒米を栽培し、小諸の地元の酒蔵に特別に仕込んでもらったということを聞いたことがある。佐久の伝統を継ぐものかも知れない。

獺祭のように有名になってほしいとは思わないが、醇なる酒はこのまま永らえてほしいものだ。
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by newport8865 | 2015-09-16 07:00 |
テレビドラマ「一路」を見ていたら、岩村田藩と内藤家の殿様、岩村田の商人が登場したので驚いた。

実家の近所でもあり、高校の同級生の実家が商店街にあったり、中学校時代の行きつけの本屋があったり、先日母が入院した病院があったり、佐久ホテルで友人の婚礼に出席したり、龍雲寺など、少しのゆかりがある。その近所にある鼻面稲荷の初午に連れて行ってもらったこともあった。現在は、新幹線佐久平駅、佐久インターチェンジなどで、岩村田の商店街も隔世の感があるが、古くからの製菓店和泉屋菓子店の半熟チーズケーキや、昔よく買いに行った母の知人の佐久鯉の専門店など親しみがある。

(なお、南佐久には、岩村田の内藤家とは異なる甲州系の内藤家があるそうだ。)

岩村田藩のことは、実家に一番近い場所にあるのについ忘れがちで、このブログでも少し触れたことがあるのに、ほとんど忘れていた。ドラマでは、岩村田藩の陣屋(城郭)に主人公の一路が殿の御供として伺候する場面が描かれるが、さて陣屋はどこだったかと調べてみたところ、岩村田小学校がその跡地に建てられ、内藤家を祀る神社がその傍らに位置しているらしい。一路の殿の宿泊所だったはずの龍雲寺からは南に歩いて1km強ある。原作も読んでみたが、原作の設定では、陣屋は龍雲寺のすぐ南に位置するという描写があり、実際の位置関係とは大幅に食い違っているようだ。



さて、岩村田藩のことをネットで検索していたら、
ぱんだ城というサイトの中の 信濃 岩村田 というページを見つけた。

非常に的確な内容が書かれていてうれしかった。「寒竹」は、数年前、弟が会社の知人からいただいたということで、年末年始の帰省のおりに飲ませてもらったが、アルコールや糖分の嫌味がまったくなく、甘口だがくどくなく、しみじみ醇な酒だった。

そんなわけで、特にこのページの以下の記述には我が意を得たりで、感激した。本当によくわかっていらっしゃる。飲んべというわけではないが、佐久の酒についても別項で少し書いてみたい。

日本酒も、ものすごくうまい…。パンダの人には特におすすめ。
岩村田商店街の中に、戸塚酒造店さんという小~さい酒蔵があって、『寒竹』という銘柄を作ってらっしゃる。
宣伝費よりも材料費、量より質、というお考えだから、全く知られていないが、おすすめ。フルーティで甘口なのにサラサラしててスッキリで、女性にもおすすめ。

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by newport8865 | 2015-09-14 21:08 | 歴史
以前、 全国小正月行事調査「どんど焼きは国民行事」 への回答案をアップしたことがあったが、久しぶりに上記の小正月行事のサイトをのぞいてみたら、着実に調査は継続されているようで韓国その他の外国の「火祭り」にまで調査が及んでいて驚いた。

また、このブログの記事についても、一覧表
-「佐久の柵に桜咲く」さんブログ提供情報-2010年1月8日
 (※佐久の柵に桜咲くさんのブログに連絡先が見あたらないため、この欄でお礼を申し上げます)

と断り書きがあり、ほぼそのまま掲載いただいていてうれしかった。

ただ、改めて読み返してみるともう40年以上昔の記憶なので、主要行事(山からの木おろし、道祖神の御年始の獅子舞とどんど焼き)の日付も、あいまいな感じだ。

その後いくつか思いだしたことや新たに調べたことを書き付けてみよう。

1.思い出したこと:
私が住んでいた坂下地区という小字(こあざ)の行事では、公民館の広場の入り口に、ケヤキ?か何かの大木がそびえ、その木陰に道祖神のお社が鎮座していたので、公民館の広場をどどんど焼き行事に使っていた。他の地区(隣の中宿など)の行事は、田んぼで行われていたのを記憶している。私の地区では、諏訪大社の御柱のような丸太を中央に立てた記憶は残っていないが、そういえば上記の隣の地区では数メートルある丸太を田んぼに立て、そこから四方に藁縄を引き、縄には紙四手(かみしで)、柱の頂上には御幣(おんべ)をつけていたように思う。

諏訪神社の祭礼は近隣の地区ではなかった(油井亀美也宇宙飛行士の故郷の川上村の上流地区では諏訪祭礼がおこなわれるらしい)が、想像するに、その高い丸太は、神の依代(よりしろ)のような役割を持ち、また私の地区の年末?の山からの木おろしは、諏訪大社の御柱(おんばしら)の神事につながるような山の神の祭礼の機能も持っていたのかも知れない。

2.かんがり、かんがりや について:
川上村の「かんがり、かんがりや」、南北の相木村の「かあがり」 という言葉については、このブログの別のところでも書いている「神あがり」という解釈の余地もあるかも知れないが、全国各地の表を検索すると同じ習俗を「仮屋」(かりや)、「御仮屋」(おかりや)としている例が多く、「神の仮屋」、「神仮屋」の訛音とするのがより適当なのかも知れないなどと思ったりもする。ただ、同語源とおぼしき南北相木村の「かあがり」の「あがり」が訛音としては、「神仮屋」よりも「神上がり」に傾くと思われるので、何とも判断に苦しむところでもある。

なお、Wikipediaの左義長の項 の、
かんがり、かんがりや
長野県南佐久郡川上村。かがり火の転とも、歳神様を天に送る(神上がり、神上がり屋・夜)とも言われる。
の記述は、不詳私の編集ではあるが、特に神上がり夜の典拠は、今となっては曖昧となってしまったのが悔やまれる。

北相木村の「かあがり」
「神様の火(かがりび)が 訛り、 かあがりになった」との説も紹介されていた。

どんど焼きの名称調査では、「かあがり」も結構票をあつめていた。

かあがりの様子に触れたサイト


【獅子舞・かんがり】
道祖神祭の一つで、1月2日と7日に、海尻地区の小学生4年~6年生の児童が行う行事。
12月下旬の夜2日間子供達が公民館に集まり、獅子舞の練習やお札・オッペ(御幣)を作る。


改めて、国語大辞典では、

かむあがる【神上がる】
〔自ラ四〕=かみあがる(神上)

かみあがる【神上がる】
〔自ラ四〕
1 神が天におあがりになる。転じて、貴人がなくなる。崩御する。かんあがる。*書紀‐神代上(兼方本訓)「神功(かむこと)既に畢へたまひて、霊運当遷(カミアカリ)ましなむとす」
2 巫女(みこ)に乗り移っていた神霊が天上に上がり去る。*滑・浮世床‐二「うなり声を引て神あがる」

かみあがり【神上】
1 神が天におあがりになること。転じて、貴人がなくなること。かんあがり。
2 巫女(みこ)に乗り移っていた神霊が、天上に上がり去ること。

かみあげ【神上】
神降ろしした神を、祭が終わったあと天上にお送りすること。また、その際に歌う神楽歌(かぐらうた)。

かりや【仮屋】
2 神輿渡御の際の御旅所(おたびしょ)。

国語大辞典(新装版)小学館 1988

とあった。

3.かんがり」についてのいろいろな記事:
①荻原井泉水
「かんがり と がっつり

さて、今日のブログテーマはと考えて金田一先生の「ことばの歳時記」、7月27日の項を読んでみると、「かんがり」とあった。

初めて聞くことばだ。金田一先生は、むかし、俳人の荻原井泉水の書いた紀行文を教科書に載せたことがあるのだそうで、「富士登山」というそのエッセイの中に見つけたのが「かんがり」。ご来迎を拝むシーン、東方の空が明るくなるといった意味で使われているが、先生も始めて聞くことばだったらしく、辞書をいろいろ調べても見つからない。

結局、荻原本人に尋ねたところ、「かんがり」とは、俳人本人が苦心して作り出した新語だったことが判る。ほんのりよりも明るく、こんがりほどに熱くはないといったニュアンス。東の空の赤らみ具合の微妙な変化を表わしたかったと説明されたと書いてある。


荻原井泉水の「かんがり」の俳句が見つかった。 

佐久にもゆかりのある荻原井泉水の造語という説だが、国語大辞典には、「がんがり」という言葉が掲載されており、
うす明るいさま、またほのぼのと空が明るくなるさまを表わす語。*俳・毛吹草‐六「がんがりとはねまでみゆる月夜哉」

国語大辞典(新装版) 小学館 1988

とあり、江戸時代前期の俳論書だという「毛吹草」に用例があるらしい。

②芥川龍之介
検索をかけていたら、芥川龍之介の「或る日の大石内蔵助」には、「かんがり」の用例があるのをみつけた。井泉水とはどちらが早いのだろうか?

③沼島上臈
これは関係ないだろうが、「沼島上﨟」(淡路島の伝説?)に「かんがり」という呼び名について書かれている記事があった。どうやら魚の名前の別名らしい。

④アメノウズメノミコト?
199754 ウズメノミコトのおどりは騎馬民族由来?
という記事に以下のような不思議な記述があった。「かんがりの独白劇」
◆ウズメノミコトの踊りとは

ウズメが行なったのは、このような行為である。
----------------------------------
鬘や襷で扮装した天細女は手淫を行なったうえで、覆せた槽を並べた舞台にのぼり、かんがりの独白劇をやってのけた。
------(三隅 2002年)----------


Wikipedia のアメノウズメ
の記事を読んだところ、
「槽伏(うけふ)せて踏み轟こし、神懸かりして胸乳かきいで裳緒(もひも)を陰(ほと=女陰)に押し垂れき。」

とあったため、神懸かり を 「かんがり」と記したもののようだ。「かみがかり」は古くは、「かむがかり」と訓んだという。

確かに、神懸り・神憑り と記すと、「かむがり」と訓みたくなる。

⑤最近の「かんがりや」に触れた記事
長野県内の「火祭り」をまとめた記事があった。
 南牧村川平地区では、やぐらの他に「おかりや」というものが作られる。男女の形をした道祖神の周りを小枝やワラで囲み、しめ縄を飾ったお椀を伏せたような形のものだ。それに火を点け全体に火が回った頃、地区の未婚男性によって道祖神が取り出される。「道祖神を火の中から助け出すと良縁に恵まれる」という言い伝えからだという。


◆南牧村のかんがりや
隣村、南牧村野辺山にあるホテルのブログ。川上村のかんがりやとは少々様子が違う。

南牧村海尻の「かんがり」の記載があるページ


川上村のホームページの歳時記には、
道祖神まつり
●松引き●小屋つくり●紙集めとおんべきり●木集めとおんべ建て●おかりやつくり●獅子舞●どんど焼き
と行事が細かく分かれて書かれている。ここでは、「かんがりや」とは書かれておらず、「おかりや」と記されている。

◆川上村大字御所平字新宿の「かんがりや」
地元のJA(農協)の記事があった。同じ大字御所平の小字新宿地区では現在も、私が40から50年ほど前に経験したのと同じようなかんがりやの行事が伝えられていた!

ちなみに御所平は比較的大きい集落で、川上村内では東から西に流れる千曲川の下流に向かっての右岸に、「本郷」(お寺がある)、その向いの左岸に東から「坂下」(お森に住吉神社が祀られている)、「中宿」、「下宿」、「新宿」(JRの信濃川上駅がある)と、小字が並び、その小字ごとがグループになって、それぞれ「かんがりや」が行われていた。私より少し上の世代の頃までは、他の地区に遠征して、たき火の周囲で太鼓を叩きながら火の番をしている子供たちと喧嘩をしたり、スルメやミカンを分け合ったりというような「遊び」があったという噂があった。
2014年01月29日
主役は子どもたち、道祖神祭り「かんがりや」 [JA長野八ヶ岳]
「お祓いと獅子舞をして回る子どもら
川上村御所平新宿地区でこのほど、小正月の伝統行事で道祖神祭りの「かんがりや」が行われ、子どもたちが地区内約60戸をおはらいと獅子舞をして回った=写真。
JA長野八ヶ岳川上支所にも7人の子どもが訪れ、掛け声に合わせて「家内安全」「商売繁盛」の願いを込めておはらいと獅子舞を行い、「奉信道道祖大神宮」の御札を受けた。掛け声は、無病息災を願って「風邪ひかねぇようにー」や豊作を願って「野菜がたくさん取れるようにー」など、訪れる家によってさまざま。
この「道祖神のご年始」が終わると、道祖神を祀(まつ)るお宮「かんがりや」を燃やす「どんど焼き」が行われ、燃え上がる炎で繭玉をあぶって食べたり、書初めを燃やしたりし、今年一年の健康と勉学の向上を祈った。


◆おかたぶち
御所平の東隣の大字「原」地区の、比較的よく知られた「おかたぶち」の記事には、「かんがりや」の日程についても触れられていた。こちらは1月14日だという。15日というのは自分の記憶違いだろうか?

原のおかたぶち 新しい仲間を迎え入れる歓迎の儀式
県指定無形民俗文化財 【川上村】
由来・次第
 道祖神習俗の流れをくみ、毎年1月14日に行われる嫁祝いの儀礼習俗で「かんがりや」とも呼ばれる。「おかた(お方)」とは嫁に対する最高の敬称で「おかたぶち(お方椽)」といえば、嫁がその家に嫁ぎ、占有した座をいう。おかたぶちの対象となるのは、前年1月15日より当年1月14日までの一年間に嫁入りまたは婿入りのあった家である。
 行事に参加するのは、小学校1年生から6年生までの男子で、6年生が親方、5年生以下の子どもたちが家来と呼ばれる。
 1月14日、各戸から注連縄や松飾りを集め、夕方までにお仮屋をつくりあげる。夕方、親方は家来を引き連れてお仮屋前へ整列し、神官のお祓いを受ける。続いて、御幣を持った親方を先頭に、一行は新嫁の家へ向かう。家では新嫁と付添い人が晴れ着を着て茶の間の表に向かって座り、一行を迎える。子どもたちが家に着くと、一番家来は太鼓を打ち「おかたぶち」と大声で言う。親方は、各々御幣を持って茶の間へあがり、嫁に向かって着座、黙礼して立ち、御幣を振りながら嫁のまわりを3周歩いてお祓いをする。以前は、御幣で嫁の尻を叩くこともあった。この御幣は、嫁を多産にする呪力をもつとされ、嫁叩きは、子授けのまじないであるとともに、新嫁がこの村に加入する儀礼でもあったと考えられている。
(写真 川上村教育委員会)
●開催日/1月14日
●開催地/川上村原地区


この行事は、御所平には伝わっていなかった。

◆川上村誌民俗編の「かがり火」と「お仮屋」の記述
こちらのブログには、 川上村誌民俗編の記述が引用されている。これは16日となっている。小正月行事だったので、15日だと思い込んでいたが、数日かけての行事だったのかも知れない。15日が獅子舞で、16日がかんがりやだっただろうか?

十六日夜、かがり火の上に樅で作ったお仮屋をのせて一時に燃す。お宮はパチパチと音をたてて燃え、火の粉は中天に舞い、すさまじい火柱は冬の夜空を焦がし壮観を極める。この炎上する火に、各自書初めを棒の先につけてかざすと、紙は燃えながら高く舞い上がる。高く上がるほど手が上がる(習字がうまくなる)といわれている。



さて、どこかにあの樅(トウヒ?)で作られた立派なカンガリヤ(お宮型の仮屋)の写真はないものだろうか?地元にとってはあまりにも身近な年中行事なので、あまりネットにアップするようなことが無いのかも知れない。外部からその地にIターンなどで住むようになった人のブログなどにこのような行事の記事が見られるのはそれが理由だろう。自分も子ども時代を過ごした場所から転出したがゆえに、懐かしく思い出されるのかも知れない。上記の「新宿」の「かんがりや」の主役たちは、下手をすれば、自分の子どもというよりも、孫の世代といってもいい世代になる。

南佐久の「かんがり」
南佐久地方では、木で小屋を作ってわらで屋根をふいて、さらに松の枝でかこいます。
この小屋に火をつけるという方法で行われ、さらにその燃え残ったものを持ち帰って自宅の屋根に投げあげます。
これが火除けになるとされ「かんがり」という名で親しまれる行事となっています。

確かに、燃え残った「かんがりや」の燠火を家に持ち帰って炬燵や薪ストーブの燠火にする、というような風習もあったかも知れない。さすがに屋根に投げあげたら、わらぶき(茅葺)屋根は燃えてしまう。

4.「春の祭典」
ところで、上記の調査サイトのまとめにも書かれていたのだが、この行事も太陽暦への改暦までは、当然太陰暦で行われ、東アジアの太陰暦の正月(中国の春節)に行われていたので、正月が太陽暦の1月下旬から2月中旬だった太陰暦時代には、ほぼ厳寒の二十四節気「大寒」を過ぎてから行われていたことになる。当然、小正月の15日は満月だった。春の訪れを寿ぐ満月の夜の火祭りというと、まさにはるか縄文時代からの血脈のロマンが蘇るようにも思う。(但し、冬は狩猟の季節だったはずの狩猟採集文化に由来するよりも、弥生時代以降の農耕儀礼に関係するものだろうから、連想を飛躍しすぎるのはどうかとも思う。)

ただ、想像を少しほしいままにすると、外国の行事として、フィクショナルなものではあるが、有名なストラヴィンスキー、フォーキン、ニジンスキーによるバレエ「春の祭典」、ロシアの古い「春の訪れを祝う異教的宗教行事」を題材にした作品をも思い起こす。さすがにこれは舞台芸術なので、火祭り的な脚本は無かったはずだが、ゲルギエフによる初演の復活上演の試みなどを見た記憶を思い起こすと、「火祭り」の要素が含まれていてもおかしくはない。ストラヴィンスキー等が、どの程度民俗的・習俗的な取材を行ってこの音楽、舞台を作り上げたのかはまだ調べたことはなく、舞台を見る限り農耕儀礼というよりも狩猟採集、遊牧文化的な印象が強いが、おそらく、季節的には、厳寒期が終わり、春の兆しが訪れるか否かの時期(相当の蓋然性をもって太陰暦ベースで)にこの祭典が行われたことを想像することは可能だと思う。モンゴル帝国の影響を被ったロシアを考えると、東アジア圏の春祭りの習俗という意味で、何らかの共通性があるのではなかろうか? 

残念ながら欧州の調査は、まだ少ないが、モンゴル、ロシア(シベリア地方もウラル山脈以西も)やハンガリー、フィンランドなどを調べると面白い結果が出てくるように思う。

5.仙台のどんと祭
記憶は意外に薄れやすいものだ。仙台市で大学生活を送ったのだが、1度だけ友人と仙台市の北部(旧仙台市域で、現在なら中心部になるのかも知れない)にある大崎八幡神社のどんと祭「松焚祭」を、小雪の降る寒い晩に見に行ったことを急に思い出した。(現在では大崎八幡宮が正式名称らしい)。
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by newport8865 | 2015-09-11 20:00 | 行事 風習