ふるさと佐久


by newport8865
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縄文早期の縄文人の人骨とその人骨を残した人々の生活遺跡が発見されたことで、国の史跡として指定された北相木村の栃原岩陰遺跡には、10数年まえ一度訪れたことがあったが、このブログで記事を書いている際に、その出土物などを中心として考古博物館が建設されたということを知り、ダム見物の途中に立ち寄ってみた。

村役場と中央公民館に併設されたものだが、鉄筋コンクリート造りの頑丈な建物。小規模ながら、最新の展示ツールなどを用いて、大変見栄えのする展示になっていた。人類の進化、レプリカながら縄文人骨とその顔面復元模型や生活道具(これは実物?)が展示されている。また、洞窟内で発見された多数の動物の骨、魚類、貝類が分類され展示されているのも面白い。多いのは鹿だが、中には、すでに絶滅してしまったニホンオオカミや、絶滅が危惧されているニホンカワウソの骨とされるものもあった。

人面の復元は、博物館の来館者記念帳にも記したのだが、細面で吊り目の一重まぶたでのっぺり形で、どうみてもいわゆる弥生人型の容貌に復元されていたのには違和感を覚えた。ただ、法医学の技術を用いた蓋然性の高い復元だとすると、いわゆる縄文人の容貌に関しての通説(彫が深く、二重まぶたで毛深い:南西諸島や北海道のネイティブの人々の容貌)に対しての異議申し立てになるのではなかろうか?と思った。

特筆すべきは、骨で作られ糸通しの穴の開けられた縫い針、釣り針、そして貝などを加工したアクセサリーの数々だ。縄文人は早期の時代でさえ、これだけの文化や技術を獲得していたということは、まさに驚異だった。

この見物後、ちょっとした山歩きのために、三滝山に向かった。子どもたちは初めてだが、自分は10年以上前の夏に訪れたことがあった。道路の整備は進んでいなかったが、駐車場は広く平らなものが作られていた。また参道も階段状に整備されていた。ただ、その段差が大きく、子どもやお年寄りには少々きついのではあるまいか?大禅の滝にはまだ雪(氷)が残っていた。小禅の滝を見物して下山。以前訪れたときと景色や順路まで違っていたように思う。三滝のひとつ浅間の滝は見ることができなかった。(なお、駐車場にタンポポが咲いていたので裏返してみたところ、セイヨウタンポポだった)

なお、連休中は初夏めいた晴天にめぐまれちょうど小海町から南北相木にかけては、桜の花が花盛りだった。ただ、鳥の姿や声は見聞きできたものの、アメンボや蜂、蝶以外の小動物類や魚類、爬虫類にはまったく出会えなかった。
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# by newport8865 | 2006-05-11 20:07 | 名所・旧跡 案内

佐久のオリンピック選手

今回のイタリア トリノでの冬季オリンピックにも、佐久地方出身のオリンピック選手が出場した。二人とも、佐久長聖高校出身の、今井選手と中島選手だ。今井選手は臼田、中島選手は川上の出身。

佐久では、古くから田んぼスケートが盛んであり、また松原湖にいい氷が張り、400mの公式リンクが設営できることもあり、競技会が盛んだった。子どもの頃、「甲組合」という不思議な名称のスケート大会が松原湖で毎年開かれていた。また、清里、軽井沢にはパイピング設備のあるスケートセンターがあり、スケート人口も多かった。

古くは、松原湖育ちの南佐久実業出身の高見沢初枝選手などが活躍した。高見沢選手は、オールラウンダーで、当時としては非常に稀な、入賞を数種目で成し遂げた。

今回のトリノでは今井、中島両選手とも成績的には振るわなかったが、ワールドカップ上位にも食い込んだことのある実力者で、今井選手は今季で引退だという。


冬季五輪スピードスケート出場選手 
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# by newport8865 | 2006-02-28 20:02 | 雑談
私の実家は、両親とも南佐久の出身なので、食卓にはよく「味噌煮込みうどん」が出る。

幼い頃は、うどん料理といえば、このようなものだと思っていたので、いわゆる店屋物の醤油仕立てのうどんは、少々異質な料理のような感じを受けていたものだった。

私が母親から伝授されたものを自己流にアレンジしたものを紹介すると、人参、長ネギ、ジャガイモなどのありあわせの野菜や油揚げ、竹輪(豚肉)を適当な大きさに切り、それらの具をだし汁で煮て、そこに茹でうどん(玉うどん)を数玉を投入し、うどんに火が通ったのち、味噌で味を調えてできあがりである。どんぶりに盛り付け、好みによって善光寺七味などを振り掛けて食する。夕食の残りは翌朝また暖めなおして食べるが、うどんの腰はもう伸び切っている。学生時代にときおり自炊したものだが、北佐久は望月出身の同じ大学の仲間に作ってやったところ、非常に珍しがっていたが、美味いといってくれた。実家では、野菜ではときおり南瓜やキノコ(特に山取の天然キノコ)を入れることがある。

父は、このうどん料理が好物で、現役時代新潟県に赴任したときには、近隣の商店で「玉うどん」が入手できないことを嘆いていた。(新潟は米文化圏なので、粉食文化的な「玉うどん」を家庭料理で食べる習慣がないのではと言っていた)

しばらくのちに、甲州に「ほうとう」という郷土料理があることを知った。南佐久の「うどん」はこの影響を受けたものだろう。現在、「ほうとう」料理は、山梨県内に多くのドライブイン的な店ができて、高速道路のサービスエリアなどでも食べられるほどで、相当ポピュラーなものになっている。その由来としては、武田信玄の陣中食、つまり合戦の時の戦時食料というものがあるようだ。現在、合戦には単なる武力だけではなく、輜重・兵站つまりロジスティクがいかに重要だったかの研究も進んでいるようだが、このホウトウなどはどのような位置づけになっているものだろうか?

また、山梨県の郷土料理が、長野県の東部に伝わったということは、それだけ人的交流があった証拠だろうが、その影響はいつごろのものだったのだろうか?現在の国道141号線は、江戸時代の信州往還であり、それ以前には、いわゆる信玄の棒道(軍事道路)でもあり、山梨県から長野県への流れとともに、逆の流れも当然あったものだろう。

現在、関西圏が、粉食地帯(いわゆるうどんやたこ焼き、お好み焼きなどの小麦粉を使う食文化地帯)といわれるようだが、佐久の近県の山梨県も群馬県も小麦の産地としてうどん文化があるようだ。これはいつごろから始まったものだろうか?

佐久も北の方では、古くから水田地帯で米食が盛んだったようだが、南は高冷地で水田の実りも悪く、米以外の五穀、蕎麦などを食べることが多かったようだから、「ほうとう」の影響を受けたのであろうか? もともとは、うどんを打つまでの手間をかけることもなく、戦時中や戦後の食糧難の時代のスイトン(水団)料理のようなものだったのだろう。佐久の小麦栽培はあまり聞いたことがないのだが、どのようなものだったのだろうか?

なお、ホウトウ という言葉は、WIKIPEDIAにも掲載されている。北関東では同様の料理を「おっきりこみ」というらしい。

「ほうとう」の名は「餺飩(はくたく)」の音便したものとも言われる。名称としては、うどんと同程度の歴史があり、うどんと同様に中国から伝来した料理と考えるのが自然である。現代の陝西方言でワンタンのことを「餛飩」と書いて「ホウトウ」と発音するが、長安から伝わった料理の可能性がある。同音の「宝刀」や「放蕩」などを語源とする説もあるが、俗説であろう。



ところで、麺料理には「おざんざ」という言い方も、佐久(信州)にはあるようだ。この言葉(方言)も父母がときおり使う。ネットで調べたりすると、オザンザは調理法に限定されて使われるのではなく、より広く麺料理に使われるようだ。非常に不思議な、擬音的な語感の言葉であり、その語源に興味がある。細い麺の様子がザンザと降る雨のようだというような説を聞いたことがある。

また、「おにかけ」という言葉もある。いわゆる味噌煮込み系の「うどん」とは異なり、そうめんのような細い麺料理のある種の食べ方をさすらしい。南佐久の母親の実家で法事のあったときに、親戚や近所の女性がそうめん(冷麦)を茹で、それを水洗いしたのち、小分けに椀に盛りわけ、そこに醤油仕立てで、莢インゲンや油揚げなどの具入りの汁をかけてくれたのを食べたことがあるが、これを「おにかけ」というらしい。つまり、「煮(汁)掛け」だろう。
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# by newport8865 | 2006-02-05 20:48 | 行事 風習
アイヌ文化についてのエッセイとして読んだ。

人類学者の埴原和郎氏などの研究によりもともと日本列島に住み始めた縄文人の末裔がアイヌ人(ウタリと呼ぶのが適切のようだが以下通称を用いる)や南西諸島人で、現日本人の多くは縄文人とそれ以降の渡来人の混血だということが明らかになっているようだ。(先日のテレビ放送でも、弥生顔、縄文顔について人類学者が一般向けの教養番組で、タレントの顔を分類しながら面白おかしく解説をしていた)

参考:歴史と世間のウラ というサイトは面白い

現代まで辛うじて続いているアイヌ文化は、当時の縄文文化を継承しており、天台密教の「一切衆生悉有仏性」(生きとし生けるものはすべて本性は仏である)からさらにすすめて「草木国土悉有成仏」(ありとあらゆるものはすべて仏になる)」という日本仏教独自の思想の元に、その縄文文化を継承したアイヌ文化・宗教観があるのではないか、と梅原猛は書いているようだ。アイヌ語の地名では山も川も擬人化されているというところにその根拠の一つがあるようだ。

(とすると、八百万(やおよろず)の神々も同じ縄文的なアニミズムの現れだろうか?)

アイヌ語の地名は、北海道以外にも多く残され、アサマ、チクマなど佐久にも深い関係のある地名もアイヌ語由来だという説がある。また、先に北海道の佐久という駅名について触れたとき、そのサクの語源はアイヌ語にあるということが述べられていたほどだ。

佐久はアイヌ語のサクコタンナイからきていて、サク・コタン・ナイ(夏の・村・川)で夏に生活する集落のある川だったことから名付けられている。


縄文学の一つとして、アイヌ民族の言語、文化、風俗、習慣などを研究する分野はあるようだが、その成果はどうなのだろうか?

その北海道の佐久の地名を発見した旅行で稚内を訪れ、その地の博物館で、アイヌ系の文化の分布が北海道本島だけではなく、沿海州やサハリン、そして確か千島アリューシャン列島方面にもあることを知った。現存するアイヌ文化はそちらから(海外)の影響も多分に受けているのだろう。

また縄文遺跡・土器が北海道各地で発見されたことを、遅ればせながらこの博物館の展示によって知った。その後、本州以南では縄文文化から弥生農耕文化に移行したが、北海道では農耕文化の影響はなかったようだ。非常に不思議だ。縄文期に津軽海峡を渡れた人々が、なぜ弥生時代には北海道へ渡ってその文明を伝えなかったのだろう。自然的条件が大きく異なったためか?(沿海州、サハリン、千島アリューシャン列島方面では縄文系の遺跡の発見などはどうなのだろうか?)

いわゆる蝦夷(えみし、えぞ)と呼ばれ、平安時代には奥州藤原氏の文化を花開かせた民族が、縄文日本人の直系の人々だとすると、はるか時空を超えており、北方・大陸系の外部影響を除外はし難いだろうが、アイヌの文化人類学、民俗学的な研究と縄文の文化研究について調べてみたいものだ。

えみし【蝦夷】
(「人」の意のアイヌ語emchiu enchuに由来)「えぞ(蝦夷)Ⅰ」の古称。*書紀‐神武即位前・歌謡「愛瀰詩(エミシ)を一人(ひだり)」

Kokugo Dai Jiten Dictionary. Shinsou-ban (Revised edition) ゥ Shogakukan 1988/国語大辞典(新装版)ゥ小学館 1988

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# by newport8865 | 2006-01-31 20:56 | 地名 人名

縄文人の暦は?

昨日が旧暦(太陰暦)の正月ということで、暦のことを何気なく考えていたところ「縄文人が暦をもっていたとすると月か太陽のどちらを基準としたのだろうか」という素朴な疑問が生まれた。

先日、土器のカエル模様について、「太陰暦的な」という言葉が遣われていたことがきっかけになっている。

中国から伝わった暦は、月の満ち欠けをもとにした太陰暦なのだが、それ以前はどうだったのだろうか?

古代人の暦と言えば、ストーンヘンジだとか、ピラミッドだとかの巨石遺跡が、春(秋)分や夏至、冬至に関係あるような説があり、縄文時代のストーン・サークルもそれに類するのではないかといわれている。

弥生人(縄文時代後の渡来人)の信仰が国家的に整備されたのちの、この国の神話体系では、天照大神が最高神となっているが、これは季節に大きく依存する農業が主たる生活手段になっていたからかと想像される。(しかし、北欧の太陽信仰の冬至祭りが、クリスマスの起源の一つとされるが、太陽信仰の起源と農耕は必ずしも不即不離なのだろうか?北欧は狩猟が主たる生活手段ではなかったのか?)

狩猟採集を主たる生活手段としていた縄文人にとっては、細かい暦は不要だったのかも知れないが、北欧の例を見れば、必ずしも太陰暦的か太陽暦的かは容易には分からない。

諏訪の御柱祭りは、申の年と寅の年(6年ごと)の春に行なわれることになっているが、古代信仰を現代まで伝えるといわれるこの祭礼は暦は関係していないのだろうか?

「信長の棺」では朝廷と信長の緊張は、中国からもたらされた暦と、南蛮人のもたらした暦の衝突に由来するという説が述べられていた。非常に興味深い。(江戸時代では、徳川将軍家の天文方が暦を司ることになったようだが)

佐久町の縄文の大石棒などは、夏至、冬至の南中時の影を測るのには最適だったように思われる。(ところで、この大石棒、例の「戌の満水」のときにはどうだったのであろうか?そのような大洪水は歴史時代になっても数多く発生しているようで、現在の位置とは別の場所にあったとも考えられるのではなかろうか。)

北沢の大石棒 約4500年前(縄文中期)に佐久西小学校裏遺跡に住んだ人々が、豊かな実りと動物や人間の誕生とを重ねあわせ、集落の繁栄を願う信仰のシンボルとして湧水のほとりに立てたものと思われます。地中より発見され、後日千曲川の支流、北沢川沿いの河畔に立てられました。佐久石とも呼ばれる志賀溶結凝灰岩で作られており、高さ2.23m、直径25cmの大きさは「日本一」です。


佐久西小学校付近の地図

縄文人と暦の関係で、「縄文学研究室」という大学院生の方が開設しているページがヒットした。
その中に 「太陽と山と縄文人」という研究があり、ここにちょうど環状列石(ストーン・サークル)について書かれている。
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# by newport8865 | 2006-01-30 20:55 | 行事 風習
しんかい しんがい などで GOOGLE検索を行ったところ、「新開」氏という武将の家系が目に留まった。

武家家伝 新開氏

新開氏の祖先は、天武・持統朝以後、辺地の開発のために移住させられた新羅系渡来氏族の秦氏だという。秦氏は農・工技術集団として信濃に入り、佐久・更級・東筑摩地方に広がり、地方豪族として成長したものと考えられている。そして、その一派が武蔵国の新戒(榛沢郷大寄郷)に移住し開発領主になったのは、平安末期のころと思われる。


ここに 渡来系の秦氏 および 「佐久」 が登場することが注目される。

そして、その裔は四国は阿波の国にいたるという。

◆佐久新海神社の別名もあるという 先宮についても 別のサイトがあった。

◆和田村にも 新海神社があるという。


仮に、新海三社神社がその新開という別名から、上記武将の新開氏に関係があるとすると(由来にはそのような記述はないという記事があったが)、その家系図からは傍系かどうか分からないが、渡来系の秦氏と関係があるようである。

前にも触れた「日本の朝鮮文化」では平安期の関東武士団そのものが、これら渡来系開拓民の裔という説もあるそうなので、農耕開拓を記念する神社や馬匹生産地と、渡来系との関係は非常に深いものと想像される。

新海三社神社が、後世、「佐久一之宮」とされるほどの規模の大きい神社であるにも関わらず、延喜式神名帳(えんぎしき じんみょうちょう)に掲載されていないことは、同じく佐久の名社である、浅科の八幡神社(高良社)や佐久市の駒形神社が記載されていない一因ではないかと思われる背景、つまり渡来人系ということと関係があるのではなかろうか?

 伊勢神宮を頂点として官幣社(名神大社、大社、小社)、国幣社(大社、小社)と神々を序列体系化しています。選定に当たっては、おそらく地方氏族の猛烈な運動があったのでしょうが、選定には大和朝廷の発展の歴史段階にも関わっている地域の神社が優先されていると見ることができます。

 また、讃岐の金比羅神宮、備前の吉備津彦神社、備後の吉備津神社、紀伊の熊野那智大社などの様に、当時明らかに存在していても式内社の選に漏れている神社が多くあります。式内社は当時から存在しており、朝廷からも重要視はされていた事は間違いありませんが、それ以外の神社でも由緒深い神社が多くありました。それを式外社と言います。

馬といえば、やはり先日記した楯六郎の佐久町館付近の騎馬牧場(私有牧場)が頭に浮かぶ。

新海三社神社が室町時代に現在重要文化財に登録されるほどの三重塔や社殿を建築できたのには、バックに相当の財力の存在が当然想像される。これが大井の庄の大井氏だったのか、伴野の庄の伴野氏だったのか?


参考:
新開大神宮 熊本県
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# by newport8865 | 2006-01-29 11:36 | 地名 人名

蛙文様が象徴するもの

縄文土器の蛙文様が何を象徴するかについて、ネットで検索してみたが、明確な答えは見つからなかった。ただ、「精霊の王」で紹介されている山梨県の旧・須玉町所蔵の土器には、(出産土器)と注意書きがされていた。

◆井戸尻考古館
半人半蛙文有孔鍔付樽 国重要文化財 藤内遺跡 高さ51㎝
・・・それに紡錘形の蛙の背には、女性器の意味が重ねられているようでもある。・・・
そして、このような関係を縄文中期の土器文様と対比すれば、蛙文は同じように月の不死性を象徴していると判断でき、新しい命を産む女性の出産力は豊穣の象徴と考えられていたようだ。月と蛙と女性の複合からなる太陰的思想は、新石器農耕文化に特徴的な世界観であったと解釈される。


日本人はるかな旅展(国立科学博物館) 2001年9月の展覧会 

縄文時代の精霊たち 縄文人は、クマ、イノシシ、マムシ、カエル、オオサンショウウオ、ヒトなどの姿を土器にあらわし、また女性の土偶を作りました。これらは彼らの生活にとって重要なものを象徴していました。縄文人は、自然を森、山、土地、水、川などに分類し、それぞれに持ち主である精霊がいると信じて、信仰の対象にしていたようです。土器にあらわしたものは、祭りのさいに土器の中にいれた供え物を奉る対象であり、土偶は祈りを捧げる祖霊だったのでしょう。

◆カエルをあらわした土器 4000年前(中期) 千葉県ユルギ松 船橋市飛ノ台史跡博物館蔵



縄文土器の神秘 これは、先日紹介した「ブナ林と縄文文化」のサイト内の土器の解説(梅原猛?)


茅野市の中ッ原遺跡で大型仮面土偶が出土 女性をかたどったもの

縄文文化の超自然観 よくまとまっている
 元サイトは、明治大学の人類学のホームページだった。

人面把手付土器

■顔面把手付土器ともいう。深鉢のふちに、同時代の土偶と同じような顔がついている。
■人面把手付土器も意図的に壊されたようにばらばらになっていることが多く、土偶と似たような機能を持っていた可能性がある。


縄文の地霊

ミミヅク把手付深鉢と御所前人面深鉢との相同性からのテーマ解読
■著者紹介:西宮紘 (にしのみや・こう)


土器土偶 ホームページはこれ


把手付き縄文土器の人面把手
岐阜県高山市の小学校のサイト カエルの後脚部らしい模様とその間から人面が覗いているように見える。

富山の人面付き土器の破片 

八ヶ岳南麓の縄文土器 ムービーが見られるようだ


人面把手付深鉢 「精霊の王」で紹介された旧・須玉町の有名なもの 津金御所前遺跡出土 縄文中期 出産土器との注が記されていた!
表の胴部の両面と土器上部にある突出部の裏の3ヶ所に顔面があります。胴部にある顔面(人面)から足のような隆線が2本垂れているのが出産を表したものと考えられます。そして、突出部表にある一対の渦巻き文様は出産時の母親の苦しみの表情を表しているのではないかと言われています。
 破壊された状態で出土したものを復元したもの。


横浜市 栄区 公田町から出た縄文中期の土器の人面の取っ手は、関東地方最大のもの 横浜市立歴史博物館のパネルによると関東の土器は中部山岳の土器の影響を受けているようだ。

井戸尻考古館 図像が多いまとまったページ

尖石考古館 オフィシャルページとしては不満

大深山遺跡 おおみやまいせき 川上村の大深山遺跡からの出土品は、古い考古館から文化センターに移されているようだが、オフィシャルサイトがないのは残念だ。是非作成してほしい。


◆佐久地方の縄文遺跡について調べたが、ネット上には概観できる地図はないようだ。

■群馬県富岡の南蛇井増光寺遺跡(なんじゃいぞうこうじいせき) 佐久と群馬との影響関係がみられるようだ

長野県の佐久地方では栗林式土器を出自とする櫛描横羽状文、斜走文が吉田式の主文様として盛行し、途切れることなく後期の新しい段階まで継承され、古墳出現期に終焉を迎える。これらは、信州の他地域では見られず、佐久地方の地域的特色となっている。これらの点を考慮すると本遺跡と佐久地方との深いつながりが想像される。


狭山丘陵の遺跡 ここでも「佐久地方」への言及があり。

②中部山岳ルート 
 『一方で、同じ時期に中部山岳ルートをたどった結果、北関東や佐久地方で発達した土器が秩父市・藪(やぶ)遺跡(埼玉考古学会『埼玉県土器集成4』。一九七六)や町田市・椙山(すぎやま)神社北遺跡(椙山神社北遺跡調査会『椙山神社北遺跡』・一九八一)でも見つかっており、多摩地方の西端がこのルートの影響をも受けていたことも明らかになっている。』
 (以上、青梅市史 上 P146~167)



■北相木村の入口に近い縄文早期の栃原洞穴遺跡(有名な相木人)

佐久の遺跡について リンクを張らせてもらっている「佐久考古学会」の会報

■佐久の人面土器
宮平の人面土器  (北佐久郡 御代田町) 
愛称:あくびちゃん
 あまり人面がはっきりはしていないようだ。

「古代史」 (塚田敬章さん)のページで、佐久について論考しているものが見つかった。滑津川についても言及されている。水草の豊富な川だったが。

http://boat.zero.ad.jp/~zaw10107/5/kika_3.htm

「シャク」は容易に「サク」に転ずるでしょう。「シャクジン」、「シャゴジ」、「佐久神」という正体不明の古い信仰がありますが、これも呉・楚人の祭る鯰神と考えれば謎が解けそうです。


佐久町商工会のページ 旧・佐久町の石棒など ツアーができるようだ。

浅間縄文ミュージアム  御代田町のメルシャン美術館に併設されているようだ。国の重文の焼町土器(御代田町川原田遺跡出土)もあり。相当活発に活動している博物館のようだ。近くを通りかかったことがあったが、まだ入館したことがない。町のホームページには町の関連施設として紹介されていた。

遺跡関係のリンク集 北相木の博物館も紹介されている。
ここに立派な博物館があるのだから、川上村も馬場平遺跡、大深山遺跡など重要な遺跡博物館をぜひ建ててほしいものだ。


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なお、我が家にある土製の人面は佐久地方の出土のものだ。家族の中では、一見して非常に稚拙な造型なので子どもの粘土細工のようだと話していたのだが、表面採取のできる場所にあったことや人面把手付土器の図像を見てみると、これらの人面把手の一部だという可能性はかなりあるかもかも知れない。 今度確認してみたい。
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# by newport8865 | 2006-01-27 20:00 | 神話 伝説 昔話
「新海神社は延喜式内社ではなかったが・・・」という記事を先日書いたが、その中で ミシャグチ、ミサグチ神について宗教学者の中沢新一の著書「精霊の王」が扱っているのをネットで知ったことを書いた。

割と最近の出版なので何軒か書店を探したところようやく購入できたので読んでみた。装丁として中表紙にフランス語の "roi (王) du 何とかかんとか" というページをいれているのは、学者ながらペダンティックなことをするものだと、下世話なことが気になった。

非常に難解な本なので、理解がいきとどかないところが多いのだが、印象に残ったことを順不同であげていくと、能(猿楽)の金春禅竹(こんぱるぜんちく)の昭和30年代に発見された遺文に書かれている「翁は宿神である」という記述から多くのことがインスパイアされているようだ。

ミシャグチ、ミサグチ、「佐久」に関しては、「佐久」という文字がミシャグチ神の当て字ということは柳田国男の研究として出てきたが、地名「佐久」については直接的にはまったく触れられてはいなかった。

柳田国男(長野の飯田出身の柳田家の養子となり飯田に縁がある)、藤森栄一、今井野菊という諏訪のミシャグチ神の研究の系譜があるようだ。諏訪湖周辺の、ミシャグチ信仰の跡に奉納されていた扇と「胎衣」(えな)からの連想が興味深かった。
参考:文化財人名事典 柳田国男
筆名は赤松国祐・松男・川村杳樹・久米長目、俳号は柳叟(リュウソウ)、旧姓は松岡。長野県飯田(イイダ)出身の大審院判事柳田直平の養子となる。


飯田市美術館 柳田國男館 : 以前、飯田出身の菱田春草の日本画が見られるかと飯田市美術館に訪れたことがあった。春草の作品は常設展示されていなかったが、この記念館や日夏耿之介記念館を見る事ができて興味深かった。

中世史に新たな光をあてたとされる歴史学者の網野善彦が義理の叔父(叔母の夫)だったというが、その影響も深いようだ。

(不勉強で週刊誌や新聞の書評などで網野善彦の名前を知る程度なのだが、Wikipedia などで網野善彦の著書リストを見ると、自分が1970年代の高校生のとき、士農工商と言うが、「漁民」はどの身分に入っていたのかを日本史の先生に質問した際に、明確な答えをもらえなかったのだが、この網野氏の著書が少しでも出ていたならと思う。その多くが1990年代の出版だからやむをえない。そこから思えば自分の関心の持ち方も捨てたものではなかったのかも知れない。)

これなどは、隆慶一郎の傀儡子の一族や、東日本・西日本の差異(東海道では浜名湖付近が方言・風俗習慣の境らしい)、またこの「精霊の王」で言及されている東西日本のミシャグチ信仰の差異につながるものだろう。
岩波セミナーブックス
『忘れられた日本人』を読む
著 : 網野善彦
内容説明
宮本常一の「忘れられた日本人」を読み解き、歴史の中の老人・女性・子ども・遍歴民の役割や東日本と西日本との間の大きな差異に着目したその先駆性を明らかにする。1999年に岩波書店で行われた講座の記録を単行本化。


サ行+カ行の単語が、日本語の中で特別の意味を持ち、その中に「サク」も入る。サカ、シュクが特別の意味を持つという。渡来人秦氏の家系伝説、芸能史、西日本と東日本では「ミシャグチ信仰」の様相が大きく異なっていることなど。坂、夙という言葉。(夙谷といえば、白土三平の「カムイ伝」に出てくる地名。また、最近読んだ隆慶一郎「捨て童子 松平忠輝」の傀儡子、山窩の民のことも思い浮かんだ。)

この論考のオリジナルは雑誌「群像」(講談社)に発表された一般向けの記事であるためか実証性や精緻な推論などを端折っているようで、どうしてそのように推論されるのか、いわゆる「納得」「理解」しがたい部分もあり、また「クラインの壺」の比喩など位相幾何学についての知識が必要だと思われる難解な部分もあり、論考全体としては五里夢中の理解しかできていない。古代国家の成立、天皇制と差別の問題などにも言及されているが、まだまだ理解が及ばない。(この書籍の背景に多くの引用文献、その他著者の自著があり、それらが前提になっているのだろうし。)

ミシャグチ神のような古代人の精神活動を、考古学、民俗学、宗教学、神話学、歴史学的な手がかりを元に現代によみがえらそうとする試みというか方向性くらいしか理解は及ばないが、自分にとってもなかなか面白いものだと思う。

最近、このblogのように地方史や民俗学的なことに再び関心が戻ってきて、そういえばと考えると、高校生のころ柳田国男の「遠野物語」などに熱中したことを思い出す。もともと民俗学は趣味的に興味があった。また、学生時代に教員免許を取得する際に、中学校で教育実習を行い、社会科の研修授業で縄文時代を扱ったのだが、その際、縄文時代の人々の暮らしを知るよすがとして、石器、土器、住居跡のほかに、ごみ捨て場である貝塚、トイレの跡に残された糞石、お墓、土偶など精神生活の窺がわれるものなどがあると、半可通のわかったような授業をしたことがあったのだが、概説書で得た知識を他人に教えた経験でもそれなりに脳裡に焼きついている。

「精霊の王」の口絵に、長野県諏訪郡原村や北巨摩郡須玉町(現、北杜市。地名破壊もひどいものだ。)出土の人面(嬰児の頭部だという)のついた瓜二つの縄文土器が出ているが、その人面に似たものが、父が表面採取で採集した縄文土器の中にあるのだ。この土器は、蛙(女性器を象徴するとされる?)から胎児が顔を出していることを示すのだというのだが・・・。(文様の象徴性だが、人の嬰児はそのまま写実的に描き、生殖器を蛙文様で象徴させるという差異はどうして生じたものだろう?むしろそのような作為的な差異がない方が自然だと思うのだが。要するに蛙は象徴ではないのではないか?)

縄文土器の図像を検索していたら、「ブナ林と古代史」という面白いページがあった。

父の蔵書にも「日本人はどこからきたのか」という主題の書籍や、梅原猛全集なども実家には鎮座している。結構関心があるようだ。

私などは生来のグズで、ズクなしで、フィールドワークのような地道な作業にはほとんど興味もなく経験もない。博物館に整理・復元された展示品や解読され、印刷された文書を読む程度のまったくのディレッタントではあるが、自分のはるかかなたの祖先たちの痕跡をたどるというのはなぜか非常に魅力的ではある。

ネットで見つけた「精霊の王」関係の書評 (書評自体非常に難解なのだが)。

「人文レジ前」

情報考学

不連続な読書日記

中沢真一「対称性人類学」について(松岡正剛の千夜千冊)

世阿弥と金春禅竹――『精霊の王』を読んで―― 松岡心平


また、googleでヒットした新・網上戯論は今はリンクが切れているが、キャッシュで読むと興味深い議論が書かれている。実証性の点だ。
ウソの論拠 悪党 - 2004/12/24(Fri) 17:38 No.3242

>後鳥羽院さん

中沢新一『精霊の王』はどの書評を読んでも全て褒めていますが、どんなもんでしょう。
宿神が縄文から続く信仰としていますが、星の信仰に関係する宿と来れば普通は星宿を思い浮かべるのではないでしょうか。ならば、道教と関わる中国思想の影響を排除しきれないはずです。また、これに関連して宿曜道や陰陽道の問題も避けて通れないはずです。にもかかわらず、中沢氏は一言も触れていないんですよね。縄文から続く信仰であると、どの様にすれば論証できるのでしょうか?
最悪なのは、秦河勝伝説に触れたところです。金春禅竹の『明宿集』に載っている話を、世阿弥が『風姿花伝』で取り上げているとし、その理由が世阿弥が娘婿であった禅竹から聞いて知っていたからだとしているのです。
禅竹の生年は1405年と言われています。一方『風姿花伝』はその成立は何段階かあると言われていますが、秦河勝伝説が触れられているのは第四編です。これは応永九年(1402)年の奥書がある訳で、まだ生まれていないはずの禅竹からどうやって河勝の話を聞いて書いたのでしょう?
『悪党的思考』もそうでしたが、基本的な史料批判すら出来ないで、いい加減なことを書き散らしているのに、どうしてみんな褒めるのか、私には理解できません。

引用 http://www.furugosho.com/accueil.htm 内の http://www.furugosho.com/cgi-bin/bbs/yybbs.cgi?page=15 のようなやり取りが見つかった。
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# by newport8865 | 2006-01-25 20:32 | 神話 伝説 昔話

伝説の「佐久地穴」?

佐倉本情報 
また、深い湿地に人が落ちたら上がれない深い穴がありました。私は、思わず伝説の「佐久地穴」かと思いました。印旛沼には、昔、大きな穴がいくつかあり、水を噴き上げていたというのです。その名残の穴かと思いましたが、そこまで深読みの必要なありませんでした。単なる古井戸という設定でした。

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# by newport8865 | 2006-01-25 19:38 | 神話 伝説 昔話
南佐久から北佐久の小諸あたりまで、新暦の8月1日は墓参りの日である。南佐久ではこの日は特別な行事の日として、事業所なども特別に休みになるほどで、千曲川流域でも上田、長野方面の人には不思議に思われているようだ。

長い間、この習俗、行事の由来については、分からず、父は次のように想像していたほどだ。
 1月1日と15日は、新年を祝う祭日・行事として元旦、小正月として重要な日付であり、お盆も本来は旧暦7月15日を中心とする日々に行なわれる仏事だった(新暦では8月15日を中心に行なわれるが)。7月は1年のちょうど後半が始まる月であり、その1日も歳神行事に関係してもともとは重要な日だったが、その風習は一般には廃れたが、佐久地方だけに墓参りとして残り、15日のお盆の先駆けになっているのではないか、と。 太陰暦的には朔(新月、ついたち)と十五夜は大きな意味を持つ日であり、沖縄では今でも毎月の朔と望のときに巫女による行事があるという。

参考:市川よみうり 年中行事の連載記事


また、8月1日はいわゆる八朔の日である。
はっさく【八朔】
(「朔」はついたちの意)
1 陰暦八月一日。また、この日の行事。田実(たのむ)の祝い(節供)のこと。農家で、その年に取り入れした新しい稲などを、主家や知人などに贈って祝った。のち、この風習が町家でも流行し、この日に上下貴賤それぞれ贈り物をし、祝賀と親和とを表すようになった。また、武家では、鎌倉時代以降武士の祝日の一つとなっていたが、天正一八年のこの日に、徳川家康が初めて江戸城にはいったところから、大名・小名や直参の旗本などが白帷子(しろかたびら)を着て登城し、将軍家へ祝辞を申し述べる行事が行われた。《季・秋》
2 江戸の遊里、吉原で行われた紋日(もんび)の一つ。陰暦八月一日。遊女たちが、そろって白無垢(しろむく)の小袖を着て、客席へ出たり、おいらん道中を行ったりした。元禄年間、遊女高橋が白無垢のまま病床から客席に出たところから始まったという。

Kokugo Dai Jiten Dictionary. Shinsou-ban (Revised edition) ゥ Shogakukan 1988/国語大辞典(新装版)ゥ小学館 1988
 という年中行事も八朔の墓参りの由来の一つということも考えられる。

しかし、この8月1日の墓参りが、先に紹介した「千曲塾」の小旅行をしながらの講座の第7回の記録により、1742年 壬戌(みずのえいぬ)の年の旧暦8月1日の未曾有の大洪水による被害者を慰霊する行事に恐らく由来していることが分かった。後で記すように、千曲川流域のみならず、近畿から東北地方まで広範囲にわたる台風による大洪水で各地に多くの記録が残っているのだが、この慰霊祭が佐久地方に200年以上も続いているというのは、注目に値する。(井出正一氏の記事参照)

これは井出孫六氏の戌の満水についての講演記録。

また、小諸城の重文三ノ門もこの洪水で流出し、その後再建されたものだという。千曲川からみるとあのような高台にある建物が流出したということは、浅間山から流れ出す小河川の洪水もすさまじいものだったのだろう。

◆18世紀には天候が不安定だったことは、同じ千曲塾でも言及されている。

洪水の発生頻度は18世紀に高い。寛保2年(1742)の「戌の満水」から、19世紀の終わりまでが多かった。どういうことかというと、天明・天保に始まって、日本は小氷河期になります。それで気候が非常に不安定になり、それとともに洪水が頻発するようになった。
 20世紀に入りますと、気候は安定してくる。20世紀は気候的には非常に恵まれた時です。今後はどうなるか。予測は難しいが雨が降る量は増えて来ると思います。世界中に降る雨の量は同じですが、ぶれが大きくなる。いま地球上も暖かいところもありますが、寒い所もあります。そういうことで地球の気候が不安定な時期に入ったといえるかと思います。温暖化を防ぐために、二酸化炭素の排出規制が大きな問題になっています。


 「日暮硯」で有名な恩田木工田民親(松代藩家老)25歳のときに、松代城下がこの戌の満水に襲われた。この戌の満水が千曲川・信濃川全流域に大変な水害をもたらしたことがよく分かる。(ちなみに木工とは もく と 読み、木工の頭 もくのかみ :宮中の官職名 の略らしい) これにより、松代藩が幕府から多額の借金をせざるを得なくなり、その後の藩政が疲弊したようだ。

歴史データベース on the Webを検索すると、この水害が近畿・中部・関東を襲い、googleなどで検索してみると東北地方まで被害にあっていることが分かる。現在毎年襲来する台風の進路からいって
も近畿以東を巨大台風が襲ったことが分かるし、洪水の記録が新暦の8/28から9/6まで続いていることから、新暦8/30の台風に続いてまた台風が続けてきたのか、秋雨前線の活動が活発化したのかどちらかだろうか?

1742/08/28,寛保2/07/28
中部・近畿で、大風雨がやまず、諸河川が氾濫し大洪水となる。
1742/08/30,寛保2/08/01
台風が江戸を襲い、大名屋敷に至るまで水浸しにする。
1742/09/01,寛保2/08/03
大風雨により利根川・荒川が大洪水になり、関八州に大被害を及ぼし、田畑の水没は80万石に及ぶ。
1742/09/06,寛保2/08/08
関東・江戸が洪水となる。
1742/09/21,寛保2/08/23
幕府が勘定方に水害地の巡視を命じる。

なお、時の将軍は、八代将軍徳川吉宗で、公事方御定書が制定された年にあたる。

くじかたおさだめがき【公事方御定書】 江戸幕府の法典。二巻。寛保二年成立。八代将軍徳川吉宗の命により、老中松平乗邑の下で、寺社・町・勘定三奉行が現行の法令、判例を整理して編集。上巻は司法・警察関係の法規八一条、下巻は御定書百箇条と呼ばれ、訴訟・裁判の手続き、刑罰規程等一〇三条を収める。

Kokugo Dai Jiten Dictionary. Shinsou-ban (Revised edition) ゥ Shogakukan 1988/国語大辞典(新装版)ゥ小学館 1988


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付記 2015/9/15
Wikipedia 戌の満水 の元記事2006/9/1は、このブログ記事を元に私が投稿したものです。

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参考:Wikipedia日本語版へのリンクの貼り方 (文字化けを避ける方法)
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# by newport8865 | 2006-01-20 20:26 | 行事 風習