ふるさと佐久


by newport8865
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テーマ集

思いつくままに。

1.歴史・伝承

(1)ダイダラボッチ伝説

(2)新海三社神社縁起 着手

中世の甲賀三郎伝説。(近江の国、諏訪、龍神伝説)

(3)ヤマトタケルの東征 臨幸峠(川上村 南相木村境)

(4)川上村 保元の乱の伝説 重仁親王(崇徳天皇の皇子。近衛天皇、後白河天皇の甥で、京都の仁和寺で亡くなったとされるが、御所平の大海道の山裾の神社になぜか重仁親王が祀られているという伝承があるらしい)
  御陵(みはか)山、御所平などの地名 http://www.kawakami.ne.jp/moriben/offmeetting2001/offmeetting.pdf#search='重仁親王 伝説 川上村'

川上村御所平横尾遺跡調査報告内の伝説のページ(pdf) http://rar.nagano.nii.ac.jp/file/750/20110516103753/0847%E6%A8%AA%E5%B0%BE.pdf


(5)平治の乱、源義朝に従った平賀氏(信濃源氏、佐久市平賀?) 着手。

(6)木曾義仲の平氏追討、京都占領に従った根々井氏(佐久市根々井は岩村田から塩名田までの広い田園地帯?)、依田城、海野宿の白鳥神社  着手

(7)一遍上人と跡部(野沢北高校の北部の地名)の踊念仏

(8)武田氏の佐久侵略, 川上村の金山

(9)群馬県藤岡市の岩村田町 芦田町 (松平氏の移封) 着手

(10)「戌の満水」いぬのまんすい 1742年旧暦8月1日 の大水害と新暦8月1日の墓参りの習俗 着手

(11)自由民権運動と秩父困民党

(12)佐久地方の支配者(統治者)の変遷(未整理)
 奈良
 平安 根井氏?
 鎌倉 平賀氏?
 室町 大井氏?
 戦国 平賀氏 武田氏 上杉氏 北条氏 徳川氏・・・・?
 安土桃山 
 江戸 天領(旗本領)、岩村田藩、小諸藩、田野口藩・・・・・

 

2.地名、人名

海のつく地名、人名 小海、海尻、海ノ口、海瀬、新海、新津、など 着手

3.自然、自然史、考古学

地質時代区分

旧石器時代

ナウマンゾウ、アケボノゾウ、オオツノシカ?  着手

縄文時代、弥生時代 着手

千曲川の鮭の遡上

佐久の山間部にみられる桜 紅色が濃いので高遠のコヒガンザクラの系統らしい

昆虫、魚類、鳥類、哺乳類、爬虫類


4.文学

島崎藤村 千曲川のスケッチ と その影響

堀辰雄、立原道造など軽井沢

加藤周一「羊の歌」

山室静 北欧文学(ムーミン、ピッピなど)の翻訳の大家 旧制野沢中学出身?

井出孫六「アトラス伝説」


5.食生活
    甲州のホウトウ料理の影響 着手
    おざんざ             着手
    佐久鯉              
    イナゴの佃煮
    梁越(はりこし)饅頭
    酒蔵が多い (水と米、杜氏)
    
6.行事、風習
   8月1日の墓参り  着手

7.方言 

などなど
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# by newport8865 | 2006-01-19 23:59
木曾(源)義仲の重臣 根(々)井氏の館跡が佐久市岩村田の近郊、根々井の地にある。

根井氏館

地図はこれで、地図中の正法寺が館跡の一角を占める。この近在に、重文の駒形神社があるし、八幡(
やはた)宿に八幡神社と高良社がある。

参考:東御市 海野宿 白鳥神社

 馳せ参ずる者、地元滋野一族をはじめ、義仲の四天王樋口次郎兼光・今井四郎兼平・根井小弥太・楯六郎親忠の武将を中心に、信濃、西上州の将兵等約3千余騎が集結した。


佐久穂町(旧佐久町)大字海瀬字館(たて)に、根(々)井小弥太の子?楯六郎の館跡とされるものがある。

先に紹介した信濃源氏平賀氏の前に佐久地方を支配した豪族たちだ。「源平盛衰記」にその名前や活躍が記されている。木曽義仲の挙兵に従い、北陸道から平家を追い落とし、京を占領する主力軍となったという。(NHK 大河ドラマ「義経」では 根井行親、楯六郎とも登場したようだ。どのシーンに出たのだろう。気が付かなかった。義経との越後での遭遇のシーン? 倶利伽羅峠のシーン? 京都占領、宇治川の敗戦のシーンのいずれかだろうか?) 

義仲は京都占領後、後白河法皇に迫り「征夷大将軍」の院旨を受け「旭将軍」と通称されたが、その後従弟の義経に追討され、重臣ともども滅ぼされてしまった。滅亡後の信濃の地は大混乱だっただろう。恐らく鎌倉の頼朝は早速兵を入れ、戦後処理にあたらせたのだろうが、その戦後処理部隊が甲斐源氏の流れの平賀氏だったのだろうか?


参考:佐久町史 (これも「佐久の風はふるさとの風」さんのページ内の紹介。
このような市町村史は、郷土史家の方々の努力によって次々と発刊されているが、全国各地のそのような市町村史がが書籍として流通するだけでなく、ネット上にデータベースとして蓄積され、ネット検索できるようになれば歴史研究に相当役に立つものと思う。ネット上にこのように目次がテキストでアップロードされることにより容易に検索可能になるのだから、その効果は大きいだろう。いわゆる演繹的な研究ではなく、各郷土史の積み上げ的な帰納的な歴史像の形成が可能なのでは、などと妄想してしまう)

参考:木曽義仲の基礎知識(長野県出身の中学校社会科の先生を務めたことがある女性漫画家の方のページ)

参考:義経英雄伝というテレビゲームソフトにも「根井行親」や「楯六郎」が登場する。

木曽義仲史跡・伝説一覧

これら根井氏、楯氏の活躍、その後の平賀氏の鎌倉御家人としての隆盛(朝雅の将軍擁立騒動:牧の方の乱)など、中世の佐久の豪族が中央の政権の争奪に関与したということは、奈良・平安以来の官牧に由来する馬(つまり当時の有力な武器)の産地だったこと、またそれらの牧を管理するための組織がありを維持するだけの食料の生産力があったことを示すものなのだろう。


余談

なお、佐久のような田舎は古代以来天変地異は別としてそれほどの変化もなく推移してきたのではないかとつい想像してしまうのだが、平安・鎌倉時代だけをみても中央政界がらみの支配者の興亡はあるし、近世では、戦国時代には武田氏に蹂躙され、江戸時代にも大名の国替えが頻繁に行なわれるなど、庶民層の移転なども相当あったようだ。司馬遼太郎の「播磨灘物語」は黒田官兵衛を主人公とする歴史小説だが、黒田氏が播州で勃興するまでは、その父祖は近江からの流民で相当の苦労を重ねたという伝承を記している。中世、近世でも人々は天災・人災などでその土地で食えなくなると一家そろって他国に流浪してまで食い扶持を得ようとしたようだ。もちろん旅を職業とする遊行僧や行商人、放浪の旅芸人、職人など全国的に人々の移動交流は想像以上にあったのではなかろうか?

佐久にも有名な一遍上人が、遊行上人として何度も訪れているようだ。同行者たちがいた場合全国各地から上人のもとに参じて弟子となった人々ではないのだろうか?

鎌倉御家人の場合も、関東武士団の多くが全国各地に領地を得て、一族郎党と移住したようだ。神奈川の秦野市の毛利の庄を領地としてもらった大江広元(季光)の子孫が安芸の吉田に領地をもらって移り住んだものから後の毛利元就、長州の毛利氏が生まれたというし、またその一族は越後にも領地を持っており、そこにも毛利姓が残っているようだ。この例のように、御家人の領地はかなり全国に散らばっていたようで、同族のの領地間の交流もあったようだ。また転封によって一族郎党がそっくり移住することが多かったのだろうから、余計人々の交流範囲は広まったのではないか?

ちなみに、夏目漱石の遠祖は信州の夏目(なつめ)村(信州新町)から出たという。ここには「治武の子治貞は奥平氏に仕え、子孫は豊前中津藩の重臣となった。」とあり、夏目漱石の家系上の遠祖が、中津藩で福沢諭吉の先祖とともに働いていたということにもなるのだろう。

また福沢諭吉の先祖も辿れば信州だという(何かの小説 司馬遼太郎?で読んだ) 
ISBN4-434-05248-9. 信州と福沢諭吉. 丸山 信著 四六判 158頁 定価1100円.
福沢諭吉のルーツは信州にあった。諭吉建立の福沢氏記念碑冒頭に「福沢氏ノ先祖ハ信州
福沢ノ人ナリ…」と記した根拠を探る。 ...


長野県に「福沢氏」ゆかりの福泉寺という寺院があるようだ。(長野県埴科郡坂城町網掛49 飯綱山 福泉寺)

また、
福澤家は先祖を遡れば信州の出。 奥平が中津に入封するときについてきた。
という掲示板の記事もある。

福沢諭吉の祖先は・・・ (た)
2005-12-12 18:54:14

福沢諭吉は九州中津藩の下級武士の子供,と普通言われています。そのご先祖が茅野市の出身だったということをご存知ですか?
ビーナスライン(R152)のジャスコ(ビーナスライン茅野ショッピングセンター)のすぐ上を曲がって「前橋」を渡り,「福沢」地籍にはいります。すぐ右側に小さな公園がありそこに「福沢諭吉祖先発祥の地」(だったかな?文言が間違っているかもしれない)と書いた碑が建っています。その由来書きもあります。ぜひ一度ごらん下さい。d(^_^;)


「信州福沢考」についてのblogに詳しい。


著名人の「家系伝説」的な先祖探しでは、上記のような例があり、長野県と大分県中津など今でもほとんど無関係な土地の間に血縁的には面白いつながりがある例が多いのではなかろうか?

しかし、「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」の福沢諭吉にしてから、自分のルーツを求める衝動を抑えられなかったのだろうか?

--------------
根井氏に関して秋田県のお寺の縁起に面白いエピソードがあった。信州から秋田に大勢移住したという伝承だ。

もっとも五郎満安の先祖は土着の人ではなかった。応仁の大乱がおこった元年の春三月信州から移住してきた。信濃源氏小笠原氏の一族である。由利郡五万八千石は、源頼朝の時代、由利仲八郎恒久というものが領有していた。平泉の藤原氏の族党である。子孫政春の代になって同族鳥海弥三郎の子孫に討たれ、鳥海氏は、鳥海氏はまた二人の家臣に殺され、今度は家臣同士があらそって共にほろび、貞治二年(1363)から応仁元年(1467)にいたる百余年間、由利には領主というものがなかった。住民は秋田、仙北、最上など諸地方の略奪をうけ、群盗が横行し田畑を耕す者がなく百戸二百戸あった部落も一、二に減ったり、村の名ばかり残る無人の原野に変わってしまったりした。それに目をつけたのが、鳥海山にやってきた旅の修験者である。木曽義仲の四天王の一人、根の井小弥太の子孫と称する者で、故郷の信州へ帰るとさっそく小笠原氏やその一族の大井氏と語らい、○北広野へ家従の者どもをひきつれ移住してきた。昔のこの地に、蝦夷をふせぐための由利の柵や秋田に出羽の柵を設けた時、越前、越後信濃、または上野、下野、から兵をつのって軍団をおき、あるいは諸国の民を入植させたことがあるように、戦乱時代の集団移住は、あながち珍しいことではなかったのかもしれない。


同じく秋田の土田家住宅

土田家の祖は木曽義仲の四天王の一人、根井小弥太行親の末えいと伝えられ

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# by newport8865 | 2006-01-19 20:24 | 地名 人名

信濃源氏平賀氏

信濃源氏平賀氏・大内氏について という論文がネットで掲載されている。東大助教授本郷和人氏によるもの。

『松本市史研究』10号 00.3(分類A)
ずっと関心を持っていた平賀・大内氏についての最終言及です。平賀郷と伴野庄、平賀氏と伴野氏、そして小笠原氏の「七カ国管領」。このへんの推論の流れは我ながら見事。すごいぞオレ。とか思って「鏡の会」で発表したら、五味センセイに「ふうん。妄想じゃないのお」と言われてしまいました。ちゃんちゃん。
 との自己解説あり。

平賀城跡

 
井原今朝男 「信濃の鎌倉指向」
(『長野県の歴史』.山川出版社.1997年.p86以下)


 
元久二(一二〇五)年、時政は老臣畠山重忠〔1164~1205.42歳〕を討ったあと、妻牧の方とはかって将軍実朝〔1192~1219.28歳〕を殺害し、平賀朝雅を将軍職につけようとし逆に処罰された。平賀朝雅らは京都で討ちとられ、大内惟信らも幕政から排除された。捧荘や岡田郷なども没収され守護領となり、平賀源氏一門は信濃から姿を消し、わずかに越後国金津保(新潟県新津市)に小野時信や平賀資義(すけよし)の所領が知られるにすぎない。


日本苗字7000傑 清和源氏義光流

によると、新羅】義光─【平賀】盛義-義信(信濃源氏論文にも名前が出ている) その兄有義から【平賀氏】【金津氏】【木津氏】【新津氏】【金沢氏】が出ている。義信の子が朝雅(政)で牧の方の乱に巻き込まれる。

◆このうち 新津氏は、現在でも佐久地方に見られる苗字である。

戦国武将列伝の甲信越/北陸  には、新津氏が見られる。
佐久の平賀氏からの流れだということはここにも書かれている。牧の方の乱以前に、平賀盛義の子有義が新津市に所領を与えられていたのであろうか。そこを根拠として新津氏が戦国武将として上杉謙信の傘下で活躍したのであろう。

上杉謙信の家臣団に 新津勝資(かつすけ)の名前が見える。


上杉家臣団というページには、新津氏が旧信濃国人、国人衆(新津資相)、信濃源氏に分類されて出ている。

米沢にある 新津左近と言う人物のお墓が出ている (米沢上杉祭り関連) 米沢の林泉寺にあるようだ。新津城主だったとのこと。これが、上杉景勝の会津、米沢移封に従った新津氏だろう。

◆また、武田 家臣 新津 でgoogle 検索したところ、 もと上杉家の家臣だった新津右京の子が日向家に婿入りして武田家に仕えたという記事が多くあり。

日向虎顕(昌時の婿、新津右京の子、玄東斎) : 武田家臣団


これについて調べると、武田氏 は行

日向宋立(?~1608)

玄東斎。もと越後上杉氏の家臣・新津右京の子。

日向是吉の妹婿となり、武田氏に仕えた。

関東および越前、比叡山への使者を務めた。

武田滅亡後は徳川家康に仕えた。

1608年、死去。
とある。

これが旗本日向家の祖であろう。

徳川旗本八万騎の家紋 の ひ の欄には、

日向家 石持地抜違い鷹の羽
もと新津氏を称していたことから、越後新津氏と関係がありそうだが、頼光流小笠原氏の族と称する。代々、武田家に仕え、もと「松皮菱」を用いたが、政成が家康麾下に入る前、父東斎のころから「違い鷹の羽」を前面に押し出した。
とある。

なお、山梨県の新津姓の方のページに、越後上杉家家臣だった新津右京の子どもについての家系説話的な歴史が書かれている。

柏屋の歴史

現在わかっている柏屋の当主は、左記の通りです。 新津の姓は、武田信玄の時代、駿河の今川義元に塩の供給を止められた(現在で言う経済封鎖的なもの)とき、越後の上杉謙信が武田信玄に塩を送った美談がありますが、このとき信濃より塩の引渡しに参加した武将(上杉家臣新津右京の子供)で、その功績により武田信玄から巨摩郡落合の領土を頂き、落合に移り住んだと言われています。
これは、日向宋立その人かその兄弟のことではなかろうか?

佐久にある新津姓が、越後の新津氏と何らかの関わりがあるとすれば、「このとき信濃より塩の引渡しに参加した武将(上杉家臣新津右京の子供)」とあるのがそうだろうか?平賀氏の裔の新津氏が越後から信濃の佐久に一部戻っていたのだろうか?
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# by newport8865 | 2006-01-17 20:08 | 地名 人名

「ずら」という語尾

自分の経験的な記憶なのだが、「そうだろう」という標準語の推量や疑問の言い方は、南佐久の方言では、「そうずら」や「そうずらい」と言う。(小諸あたりの北佐久では、「そうだず」と言っていたように思う。)

「ずら」という語尾は、いかにも田舎言葉なので、父母や弟と何気ない会話をするときには出るが、普段は使うことがなくなってしまった。

川上小唄という川上村の盆踊りなどで使われる小唄では、「あちゃ見ろそうずら、まったくそうずら」という川上村の方言を合いの手に使っている。

佐久方言については、やはり「佐久の風はふるさとの風」サイトのwebmasterの方が非常に丁寧に網羅的にまとめられており、大変参考になる。

自分も父母や親戚のお年寄りに聞き取りをして、補遺を作りたいものだと思う。


さて、国語辞典には、
ずら
〔助動〕(助動詞「うず」に「らむ」の付いた「うずらむ」から出た「ずろう(ずらう)」の変化したもの)推量・疑問の意を表す。…だろう。*咄・鹿の巻筆‐四「ちり紙に火がついづら」

Kokugo Dai Jiten Dictionary. Shinsou-ban (Revised edition) ゥ Shogakukan 1988/国語大辞典(新装版)ゥ小学館 1988


以前、伊豆を舞台にしたドラマで、この「ずら」言葉が使われた記憶があるが、今日静岡の名産を紹介したテレビで、静岡の語尾では「ら」が結構有名らしい。

伊豆から佐久への途中には富士川沿いの静岡山梨が途中にあるが、このあたりの方言の特徴はどうなのだろうか?

方言は郷土遺産という掲示板に、甲州も「ずら」の分布地域だと出ていた。ただ、その掲示板の記事に佐久は違うとなっていた。北佐久は確かに「ずら」圏ではないが、南佐久は「ずら」圏だろう。

「…ずら」というのは,信州の松本・諏訪地方から,山梨県の甲府盆地を経て静岡県東部にかけての地域に代表的な言葉です。静岡に行くと「…だら」というのも現れるようですが。
ちょうど「フォッサ・マグナ(大地溝帯)」の西縁を限る大断層「糸魚川・静岡構造線」に沿った地域ですね。
(かなり誤解されているのですが,この断層線が「フォッサ・マグナ」なのではありません。この線の西側の長野盆地や上田盆地などもフォッサ・マグナには含まれます。では東の縁は?というと,これははっきりしていません。)

同じ信州でも,東信の佐久・上田や北信の長野・飯山ではあまり耳にしません(「国語学」の教科書類では一応「ずら圏」には入るようですが)。
また,飯田・下伊那や木曽では全く言葉が違っていて,こちらでは「居る」を「おる」と読んだり,「…しとる」「…しとらん」というような西日本っぽい特徴が現れてきます。

山梨県のうち「国中(くになか)」と呼ばれる甲府盆地は,この「ずら圏」なのですが,「郡内」と呼ばれる南北都留地方では「…ずら」はあまり聞かれません。隣の神奈川県や東京・多摩地方の「…じゃん」や「…べえ」の圏内に入るようです。
(私は「…じゃん」をよく使います。千葉にいた頃は「…べ」もしばしば使いましたが。)



日本語は、古代から現代まで非常に変化の激しい言葉だというが、僻遠の地方には古い言葉遣いが残ることがあるという。(秋田や青森は、現在の交通網からは僻遠であるが、江戸時代の北前船は、日本海の沿岸航行による輸送だったため、上方の文化などが相当入り込んだとも言われるので、時代時代で僻遠度合いは異なるのだろうが)
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# by newport8865 | 2006-01-15 20:17 | 言葉 方言
平山郁夫の出世作「仏教伝来」シリーズが収蔵されていることは、結構知られている情報でしょうが、公式ページでは全く宣伝されておりません。電子展示室(収蔵品目録)にも載っていないのは何らかの理由があるのでしょう。また、この美術館の収蔵品の多くが、佐久市出身の「美術年鑑」社長だった油井一二氏のコレクションだということもあまり明瞭になっていません。

「平山郁夫 仏教伝来」で検索すると、これとかこれとかこれのように「佐久市立近代美術館蔵」と明記されて出てきますし、普通の観光案内にも目玉作品として紹介されています。

この公式ページは、宣伝が下手なのか、それとも「知る人ぞ知る」でいいと思っているかでしょうね。

ただ、この「仏教伝来」は有名作で、上記のような平山郁夫展に貸し出されることが多いようで、いつ行っても鑑賞できるというのではなく、事前に電話などで展示の有無を確認しておくことが必要でしょう。
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# by newport8865 | 2006-01-13 20:51 | 名所・旧跡 案内
今年の干支(えと)にちなんで、上野動物園からの依頼により、川上犬の仔犬が3頭、上野動物園に貸し出され、この1月9日まで公開され大人気だったという。

この川上犬の産地(というのか?)川上村は、千曲川(信濃川)源流の村として知られている。主要街道の佐久甲州街道の道筋からも外れているため、往古は人や物の往来は相当閉ざされていたようである(金峰山の大弛峠、信州峠、野辺山を越えれば甲州であるし、三国峠を越えれば秩父なのでそれなりの交流はあったようだが)。

明治生まれの文豪島崎藤村は、小諸義塾の教師を務めていたおり、千曲川河畔を遡る小旅行を何度かしており佐久の各地に足跡を記しているが、その紀行を散文の「千曲川のスケッチ」(青空文庫へのリンク)というエッセイにまとめており、その中で川上村にも触れている。ただ、実際には足を踏み入れたことがなかったらしい。下記の引用部分が、川上村についての記述だが、川上村の人々にとってはあまり愉快ではないものだろう。ただ客観的にみれば、明治30年代の島崎藤村の在小諸時代はもとより、佐久の山奥の村村の暮らしは太古からこのようなものだったのではなかろうか?

ここから更に千曲川の上流に当って、川上の八カ村というのがある。その辺は信州の中でも最も不便な、白米は唯病人に頂かせるほどの、貧しい、荒れた山奥の一つであるという。


(川上の八カ村というのは、現在大字地名の 御所平、原、樋沢、大深山、居倉、秋山、梓山、川端下のことを言う。) 

旧石器時代の馬場平遺跡や、縄文時代の大深山遺跡が残されている川上村ではあるが、水田耕作が農業の中心となってからは、高冷地ゆえの貧しい苦労の多い生活を長く余儀なくされたのだろう。そのような時代に、人々の狩猟を助けたのがこの川上犬だったわけだ。(大深山遺跡などから犬の埋葬跡などが発見されれば面白いのだがどうだろうか。)


川上犬は、伝承としては秩父多摩国立公園に属する深山のオオカミと飼い犬が交配した子孫だと言われ、猟犬として勇敢で、飼い主への忠誠心が非常に強く、一人前となった成犬を別の土地の人に贈ったりすると、元の飼い主の家に戻ってきてしまう、という習性を強く持つという。(信濃毎日新聞「しなの動植物記」) 

ただ、以前、ニホンオオカミのこと調べたblog記事を読んだことがあるが、もともとオオカミと犬が分かれたのはほんの1万年ほど前のことで、遺伝子レベルではオオカミと犬はまったくの同じ生物だとのことだ。写真を見たが、以前ネットで見た多摩動物公園のシンリンオオカミの幼獣とそっくりだった!

このblog記事に張ってあるリンクを辿っていったところ、「日本の地犬」という網羅的なページがあった。川上犬が属する「信州柴」についても書かれている。

ところで、今回の上野動物園での公開は、Blogでも結構話題になっていたようだ。

テクノラティの「川上犬」での検索結果
http://www.technorati.jp/search/search.html?callCode=-324.9191&queryMode=main&query=%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E7%8A%AC&language=ja

Oh~Wan Da Four Life (http://diary.tonten.chu.jp/?eid=69156) から川上犬の部分を全文引用させていただいた。(朝日新聞の記事のようだ)
東京・上野動物園。戌年の今年初め、一番人気は天然記念物「川上犬」だった。
公開最終日の9日には約1千人が会場に詰めかけた。
「干支にちなんだ動物展でこれほどの人気は初めて」と飼育担当者も驚いた。
 川上犬は秩父山地や八ヶ岳など標高2千㍍級の山々に囲まれた長野県南佐久郡川上村が主な生息地。
体高35~45㌢。信州系の柴犬である。「信州柴」の一種で猟犬だった。
1921(大正10)年ごろに県天然記念物に指定された。
威厳のある容姿から日本オオカミの血を引くとの言い伝えもある。
交流が制限されていたことから交配がほとんどなく純血が保たれてきたらしい。
 35年、国鉄小海線の開通による森林伐採のため外から人が流れ込んだ。
洋犬も一緒に入り、雑種化が進んだ。戦時中は食糧難から軍による撲殺命令も出た。
絶滅したかに思われたが、八ヶ岳に住む老人がオスとメスを保護していたという。
 現在の川上犬は、その子犬をもとに村人が川上犬に近い犬との交配を繰り返したものだ。
村内では現在50~60匹いる。保存会会長を務める藤原忠彦村長は
「完全復活には長い時間がかかるだろうが焦らずに純血度を高めていきたい」と話す。(以下略)

~『朝日新聞』より


純血度を高めるということは、遺伝病のリスクが増えることなので、困難な課題だと思う。天然記念物ではあるが、本来飼い犬は天然の産物でなく、人為の産物ともいえるものなので、困難さがつきまとうのだろう。大風呂敷的に言ってしまえば、DNA的にはチワワもピレネー犬(グレート・ピレニーズ)も同じ犬なのだから。
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# by newport8865 | 2006-01-13 20:16 | 雑談
新海三社神社への参道の入り口にあたる場所、佐久市(旧 臼田町) 田口に、非常に小規模な「五稜郭」と称する城跡(別名竜岡城と称する)があります。現在、城跡は、小学校の校舎と校庭になっています。

今回調べていたところ、この城と田野口藩(竜岡藩)は、江戸時代の末(幕末)に出来たものとのことで、驚きました。

「松平(大給)乗謨(のりかた)の時に信濃田野口に移り、一代で明治維新を迎えた。」

松平(大給)乗謨(のりかた)についてはここが詳しく、竜岡岡城についてもよくまとまっています。

おぎゅう(おギフ)【大給】
姓氏。三河国賀茂郡大給に住した豪族で大給松平氏ともいう。始祖は物部尾興の裔が源頼朝から荻生庄の地頭に補任された荻生氏であるといわれる。乗元から代々大給城主となり、家乗が徳川家康に仕え、上野那波郡内で一万石、のち美濃高洲・浜松を経て館林六万石。さらに佐倉・唐津・鳥羽など転々と移封し、明和元年三河西尾領主となる。幕末には老中となって明治に至る。信濃竜岡・美濃岩村・豊後府内の大給松平氏はともに支族。

Kokugo Dai Jiten Dictionary. Shinsou-ban (Revised edition) ゥ Shogakukan 1988/国語大辞典(新装版)ゥ小学館 1988


五稜郭は、函館のものが有名で、こちらは規模も大きく、戊辰戦争で実戦に用いられたのですが、龍岡城の方はそのミニチュアモデルのようで、このような信州の僻地に建設した意味があまり分かりません。

函館五稜郭の方が龍岡城五稜郭よりも先に建設されたようですから、ミニチュアモデルとして先に作ったということもないようです。余計その理由が分かりません。

1864年(元治元年)3月 新陣屋(五稜郭)建設着工
1867年(慶応3年)4月 新陣屋竣工

五角形の1辺の部分の長さでみると、函館が約300mであるのに対し、龍岡城は約150mでほぼ半分。面積で言えば、およそ4分の1ということになり、ミニチュアサイズといっても良い位。


武田斐三郎は、五稜郭築城設計及び監督・函館奉行支配諸術調所教授役。
五稜郭は我が国はじめての洋式築城で、安政4年着工、7年の歳月を費やして、元治元(1864)年に竣工しました。のち旧幕府脱走軍がこの城に拠り、箱館戦争の本城となりました。
 http://www.hakodate-jts-kosya.jp/p_goryo_hi.html

これらを改めて調べる前には、田野口藩は、新海三社神社の祭礼のために設けられたのではないかという頓珍漢な仮説を考えておりましたが、まったくの妄想でした。
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# by newport8865 | 2006-01-13 20:13 | 名所・旧跡 案内
昨日本屋で本を探していたら、偶然「佐久」の文字が目に飛び込んできた。

手にとってみると、「佐久に伝わる歌の風土記 北佐久編」 という表題で、著者は 小宮山利三 となっていた。

どのような著者かと経歴をみると、中学・高校音楽の教師とあったので、記憶の糸を手繰ってみると、多分自分が中学校時代に音楽を教えていただいた方に行き着いた。おそらくそうだろう。

バリトンの美声の持ち主で音楽についての素養も深く、油絵もよくした方だったと思う。

内容は、ちょうどバルトークとコダーイが、ハンガリーとその周辺で民謡研究した手法と同様らしく、テープ録音したものを楽譜におこしたもののようだ。昨日記した「道祖神の御年始」も採譜されていた。

おそるべきスピードで失われていく古くからの伝承をこのような形で記録しておかれるのは非常に重要な仕事だと思う。
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# by newport8865 | 2006-01-12 20:50 | 雑談
更科、埴科の地は、森将軍塚の古墳以外にも、周辺の山の山頂、稜線部分に多くの古墳があり、いわゆる古代科野の国の中心だったとされる。

ところが、この地には、千曲川の対岸に、武水別神社という比較的規模の大きい神社があるが、あんずで有名な森の方には、由緒のある神社がないように思える。

王権と神社という点から少々不思議な感じがする。
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# by newport8865 | 2006-01-12 20:34 | 地誌
新海三社神社の主神 おきはぎのみこと を googleで調べてみたところいくつか興味深いサイトがみつかった。

◆八千穂(佐久穂町)でセミナーを開いている方の面白いサイトがあった。
日本地震予知協会Webサイト ~雲にきこうよ~以下、神名の漢字表記は原則としてこれによる)の子興波岐命(オキハギノミコト)が
建てたという新海神社に残っている。このように諏訪神社と深いつながりがある新海神社
からは、旧暦の正月頃に蓼科山頂に日が沈むのが見られる。 ...

◆このページは普通の旅行記かと思っていたが、「直さんの『中央構造線と古代史を考える』という壮大な仮説ページのうちの一ページだった。
新海三社神社佐久の新海三社神社は、佐久地方を開拓したといわれるオキハギノミコトを主祭神と
してまつっている。 オキハギノミコトは諏訪神社に祀られるタケミナカタの子供である。
タケミナカタは、オオクニヌシノミコトの子供で、天孫族の出雲の国譲りの争いに抵抗 ...

古代鉄関連の地名 その1 には 砂鉄に関係のある地名として 「須坂」、ダイダラボッチが産鉄関連の民話とされている。

また、佐久の茂来山(もらいさん)については、「茂来山(モライサン)鉄山遺跡 : 江戸時代に経営された製鉄跡」として紹介されており、諏訪の守屋山(モリヤ、モレア、守屋、守谷、守矢)を想起するという示唆的な記述があった。モライサンは、蓬莱山(ほうらいさん)に似ている山名くらいに思っていたのだが、モリヤの当て字という指摘はなるほどと思う。

文明・技術の主要な要素である道具:石器(縄文時代の黒曜石の産地は諏訪に近い和田峠の星糞遺跡など!)から、金属器への進歩・伝搬と、古代の神々の征服・被征服神話・伝承には確かに何らかのつながりがあるだろう。出雲の荒神谷から大量に出土した銅剣。その後の製鉄によるより優れた道具である鉄器。狩猟採集経済よりも定住農耕経済の方が人々の生存に有利という判断はあったのだろうが、優れた道具・武器を持つ人々により、劣った武器を持つ人々が侵略・吸収・追放されたという歴史でもあるだろう。

諏訪神話は次のように解釈することも可能だろうか?
モレヤ神(ミサグチ神)を奉ずる縄文系の石器を道具としていた狩猟・採集のグループが古くから諏訪の地に住んでいた。諏訪湖の後背地である八ヶ岳の西南麓の豊富な縄文遺跡群。和田峠の黒曜石。

その人々が、出雲・安曇系?の銅器を用いるプレ弥生系?農耕グループ(タケミナカタノミコト、オキハギノミコトなどがシンボル)に侵略・吸収され、この農耕グループが大きな勢力を持ち、周囲の地方(佐久も含む)を侵略・吸収していった。

そこに、いわゆる天孫系の鉄器を用いる弥生系の水田農耕グループが九州、畿内から勢力を伸ばし、ついに出雲・安曇系の諏訪の勢力と衝突し吸収。鎮魂のために諏訪神社に前勢力のシンボルであるタケミナカタノミコトなどを祀った。前代の勢力は、荒ぶる神として祀らなければたたりをなすものとして神鎮め儀式を行なったのではなかろうか?ただし、古いモレヤ神信仰も消滅せずに継承され、それが諏訪大社に残る、御柱の祭儀として今に伝わっているのではなかろうか?


ところで、オキハギノミコトが佐久の「開拓神」とされているということは、農耕技術の伝承者ということにもなるだろう。佐久は、600mから1000mにいたる高地ではあるが、千曲川の沖積地で、水利も比較的よいため、相当古い時代から土地を開拓し畑や水田が開かれていたのではないかと思われる。新海三社神社も諏訪大社とパラレルで、先にミサクチ神が祭られ、その後オキハギノミコトをシンボルとするグループにより農耕がもたらされ、その後やは天孫系のグループにより水田農耕がもたらされ、オキハギノミコトグループを神社に祀ったということかと思われる。

新海神社の謎長野郷土史研究会機関誌
「長野」第211号(2000年5月) (500円)在庫あり 注文のページ

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松代藩山中代かき馬と領内牛馬数・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・古川 貞雄
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新海神社の謎・・・その創建・興波岐命・東本殿について・・・・市川 武治
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絵で読む平家物語(18)
・・・六ヶ度軍・三草勢揃・三草合戦・老馬・一二之懸・二度之懸・坂落・・・小林 一郎・小林 玲子
(口絵)善光寺式黄金仏
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# by newport8865 | 2006-01-12 20:10 | 神話 伝説 昔話