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ふるさと佐久


by newport8865
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墨坂神社 (佐久とは関係ないが)

延喜式 神名帳には多くの神社が出ているが、自分にとって比較的親しい神社に 須坂市の墨坂神社がある。
当社は其の草創年月不詳と雖、住古大和部族移住に際し同国宇陀郡榛原より墨坂神を 遷祀したるものなり。

とあり、

すみさかじんじゃ【墨坂神社】
(1) 長野県須坂市にある旧県社。祭神は墨坂神・建御名方命。
(2) 奈良県宇陀郡榛原町にある旧県社。祭神は墨坂神。

Kokugo Dai Jiten Dictionary. Shinsou-ban (Revised edition) ゥ Shogakukan 1988/国語大辞典(新装版)ゥ小学館 1988

と国語大辞典にも出ているほど。

須坂の墨坂神社は、それが転訛して須坂となったという伝承がある神社で、八幡町に墨坂神社(八幡神社)があり、芝宮に墨坂神社(芝宮)があり、その距離は一キロほど離れている。それぞれ大きい社域を持っている。現在では全く切り離された別の神社のようであるが、往古は上社下社のような関係の一社だったのであろうか?

この墨坂から須坂の転訛については、異説があるようだ。
一見墨坂(古代の神社)―須田(中世の地名や氏)―須坂(近世の地名)へ転訛のように思われるが、須田氏は墨坂神社勧請以前から存在していたと考えられ、発祥は別。
となっているが、須坂の墨坂神社は、延喜式内社であり、下記にあるようにそれ以前の天応年間(西暦781年)に奈良の墨坂神社の社領とされていたということで、創建は少なくとも延喜年間以前のはず。須田氏についてはここに詳しいが、奈良時代以前に須田氏が遡れるとは考えがたい。最近の自治体合併ではないが、須田郷と墨坂神社の須と坂をとって須坂となったとも考えられる。また須田城は現在の臥竜山にあたるらしい。

一方この須坂の墨坂神社の本社が上記(2)の奈良県にある墨坂神社であるという。

http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page208.html 
には、
又新抄勅格符抄によれば天応元年十月十四日(奈良朝末期で西暦781年)『墨坂神一戸信乃』と記されており現在御分社として長野県須坂市に墨坂神社が二社あるところから天応年間には信濃にまで神領があった大社であったことがうかがわれる

とあり、須坂の神社がすでに奈良時代に鎮座していたことが分かる。

ところで、この祭神の 墨坂神であるが、非常に古い神であるらしい。

司馬遼太郎のエッセイ、対談などで、奈良県のこの地方は大和朝廷にとってかつてはまつろわぬもののすみかだったらしい。奈良の西方の葛城山などは異端の神だった(役の行者の修業地)ということが述べられているが、この墨坂神もその古さからそのような異端系(反神武系)の神だったかも知れない。

ともかく、大和の東方の山深い宇陀郡の古社(なぜか延喜式内ではないらしい)と信濃の北方の善光寺平の東方の須坂が、往古確実なつながりがあったというのは非常に不思議なことだ。

(長野の善光寺の起源自体、飛鳥時代当時の中心地、大和、難波での仏教弾圧に関係しているというのだから、往時信濃の北部と畿内に往来があったことは理解できるのだが。「皇極天皇元年(642)信濃国麻績(おみ)里の本多善光(一説に若麻績東人(わかおみのあずまんど)とも)が堂宇を創建」 麻績 おみという地名が長野と三重の松阪付近にあるのも面白い)


なお、自費出版で、「八十歳からの自由研究(二) 日本の鉱物と地名 墨坂神社私考・鉄・朱」が出版されていることが分かった。

目次は以下の通り。この目次を読むと、砂鉄と須坂、奈良の墨坂神社との関係などが書かれているようだ。

墨坂神社私考 興津正朔
 序 章
一、墨坂神社の概略
二、芝宮と八幡宮
三、須坂と墨坂
四、日本と鉄の謎
五、記紀の謎と鉄
六、大倭の統一と古墳
七、崇神と墨坂神
 第一章 須坂と墨坂神社
一、須坂と砂鉄
二、芝宮
三、墨坂神社と須坂
四、論社八幡宮と周辺
 1八幡宮
 2周辺の史相
 3祠官山岸家
五、須坂藩と墨坂神社
 1氏子集団
 2須坂藩と墨坂
 第二章 墨坂神社と由緒書
一、紛争の墨坂神社
二、墨坂神社由緒書
 1社格
 2芝宮墨坂神社由緒書
三、終戦後の墨坂神社
 終 章
 結 語


鉄というと、飯山近郊木島平の弥生時代の遺跡で発見された朝鮮半島製の鉄剣を思い起こす。

最近の発掘から見た東日本

長野県の下高井郡木島平村の根塚遺跡、これから大問題になるだろう遺跡の資料を載せました(図19)。木島平村はスキーで有名なところで、東京の調布市と姉妹都市の関係にある村です。

 この根塚遺跡は、一〇〇メートルと五〇メートルくらいの楕円形の低い丘を持つ、盆地の水田の中にポツンとある遺跡です。この根塚と呼ばれる丘の中央部から発見された墳丘墓は長方形で三段のテラスを造っていますが、長方形の斜面には張石が一面に張ってある、弥生時代後期のあまり例を見ない墳丘墓です。この図面からははっきりしませんが、長方形プランの三段のテラスになっている、その平面に箱清水式の土器、北信濃地方の弥生時代後期の土器が副葬品として複数納められていました。ガラス玉も出てきましたが、さらに三年前に、いちばん下のテラスの埋葬遺壙からナンバー4、5という鉄剣が二ふり出てきました(図20)。

 その鉄剣を見ますと、長い方が七四センチくらいのものですが、脇から右手に一本突起が出ていて、先端が丸くなっています。さらに柄頭、握るところも丸くなっていて、錆びて固まっている。レントゲン写真を撮りますと、図20右の6、7のように、そこは渦巻状になっていて、柄頭のところは鉄を二つに割いて、内側にクルクルッと渦巻にしています。さらに右側から一本そいで脇に出し、それも渦巻にしている。

 私は木島平村から連絡を受けて、この写真を見せられました。私は、これは伽耶の鉄剣だと直観いたしました。しかし私は日本考古学が専門ですから、「明治大学の大塚が伽耶の鉄剣だと言ったって、専門じゃないから……」と言われるといけないと思いまして、親しくしている九州大学の西谷正教授に来てもらいましたら、西谷さんは「これは伽耶のだよ」と言うのです。西谷さんはソウル大学に二年留学していた人ですから、西谷さんが伽耶の剣だというのは間違いないわけです。

 それにしても、弥生時代、二世紀から三世紀代前半に、朝鮮半島の南の伽耶、洛東江下流域の釜山あたりから日本列島にこの鉄剣が運び込まれて、木島平にまで来ている。木島平村から千曲川、信濃川を下ると、すぐ日本海です。専門家がご覧になって、これは朝鮮半島南部の伽耶からの鉄剣であると言われますと、従来の日本考古学の理解、つまり伽耶の地域から対馬、壱岐、北九州、瀬戸内から畿内へ入り、そして畿内勢力によって、後の東山道を通って信濃の国にもたらされたという理解が崩れてしまうということになります。

 つまり私は、朝鮮半島南部の伽耶から人と新しい技術が日本海沿岸にダイレクトにやってきているのだと、そう考えているのです。海は文化を隔てるものではなく、むしろ非常にスピーディーに人と物を繋げるものであると理解したいと私は思っていますが、こういうルート、つまり大和政権や北九州を媒介にしないで越の国にダイレクトにやってくるルートがあったとすれば、これから東日本の古代文化の理解は相当考え直さねばならないだろうと、そう思います。


この木島平村は、飯山市の東隣。近世千曲川水運時代には、飯山から長野あたりまでは川舟の輸送が行なわれていたという。

なお、須坂には、古くから笠鉾祭り(祇園祭り、牛頭天王=スサノオノミコト)という行事が伝わっている。もともと京都の祇園社(八坂神社)が発祥の祭りで、山鉾巡行で有名だが、須坂では小規模な笠鉾というものを各町内が持って練り歩く。天王おろしという儀式もあるという。珍しい民俗行事だが、この由来は?

ところで、八坂というと ヤサカトメノミコト(諏訪大社のタケミナカタノミコトの妻)が思い浮かぶが、八坂神社とヤサカトメノミコトは関係があるという検索結果はないのだが、何らかの関係がないのだろうか?
面白いQ&Aがあった。ここに、長野では上田の国分寺で有名な「蘇民将来」は、もともと八坂神社の行事だとあった)

また話が逸れるが、上田旅行(真田ゆかりの地巡り)VOL.1に、松代の皆上山の話題が出ていた。

また、逸れるが、ヤサカトメノミコト関係で北海道の諏訪神社

ところで、この建御名方命、記紀神話のうち「古事記」には国譲りで重要な役割りを演じるのだが「日本書紀」には、まったく登場しない。オオクニヌシの神統譜にも入っていないという、ちょっと謎のある神サマ八坂刀売命にしても、その名前の解釈からするとどうも山の女神サマらしいのだが、彼女(?)の神話伝承は存在しない。

by newport8865 | 2006-01-11 20:32 | 地誌